東成まちかどツアー 資料室 4.講演会

 平成12年3月15日、午後2時から4時まで、区民文化講演会を開催しました。当日は約160名の区民の方々が参加しました。第1部は、杉原達先生(大阪大学大学院教授)の講演「東成の人々とアジアとの出会い」です。
(1)はじめに
みなさんこんにちは、ただいまご紹介をいただいた杉原です。私は、地下鉄今里駅を降りて、この会場に来るまで、限りないなつかしさを感じました。私は7〜8年前まで生野区東中川に居住していました。ですから、私の子どもは東中川小学校を経て東生野中学校を卒業しています。私はみなさんとは今里ロータリーのあたりでお会いしていたかもしれません。
(2)多文化共生に向けたたからもの探し
先ほど、区長(藤本主幹代読)のお話にもありましたように、東成区のまちづくりのコンセプトは、「ものづくり文化のまち」と「多文化共生のまち」ということです。
多文化共生のまちづくりについては、多文化共生とは、「多くの文化が並び合い刺激し合っている」ことですが、ことば自体は新しいものです。国際的なながれの中で、多文化共生ということばに終わらせないで、日々の暮らしに活かしていくことが重要だと思います。
私は、日本学という専攻で文化交流史を研究していますが、人間一人ひとりが文化を持つ、歴史を持つ物だと考えています。文化交流には、うまく交流できる時と摩擦が生じる時があります。その両方を見ていくことが文化交流史だと思います。こうした視点からすると、「近代の大阪は、大阪だけで完結していない」ということができます。これは原材料が外から入り、製品が出て行くということだけではありません。歴史的な出身を日本に持たない人々と一緒に、近代の大阪がつくられたということです。ここから、多文化共生に向けてのたからもの探しをしたいと思います。
(3)大阪今里・昭和10年代・四代目桂米団治
玄人受けする落語家として、四代目桂米団治という人がいました。昭和26年に亡くなっていますが、この人は桂米朝さんの師匠になります。昭和10年代には五代目松鶴師匠と上方落語の両輪といわれた人です。昭和10年代、四代目桂米団治は今里におり、五代目松鶴師匠は片江に「楽語荘」をつくり、そこで『上方はなし』という雑誌を昭和11年〜15年にかけて発行していました。
今から60年前、東成は上方落語の発信地でした。米団治師匠は、代書屋でもありましたから、その実体験をもとに、昭和14年に「代書」という落語を創作しています。今日は、その「代書」のさわりの部分を桂福車師匠に演じていただきましょう。
(4)「代書」のまなざし
福車師匠ありがとうございました。「代書」をお聞きいただきました。今、福車師匠に演じていただいた内容は、昭和14年のオリジナルとは異なり、昭和30年代後半の舞台設定になっています。オリジナルについては、内容が時代に合わないということで語られなくなりました。何人もの人が「代書」を引き継いでいく中で消えていきました。オリジナルの話は、済州島出身の青年が代書屋を訪ねることから始まります。
この青年には済州島に妹がいます。妹は紡績女工になるために、警察に届けを出そうとしています。この届けが渡航証明です。「韓国併合」以後、日本と朝鮮は自由に往来ができた訳でなく、日本政府は統制をしていました。朝鮮半島からの人の往来については管理統制と勧誘の双方を行っていました。済州島のある村では、女工になる人が多く、渡航組合までつくられていました。大阪に渡るときに利用されたのが「君が代丸」です。
もともとはロシアの砲艦で、ロシア皇太子が訪日したときに乗った船です。ロシア皇太子の訪日時に大津事件が発生したことは有名です。この船は日露戦争にも参加し、その後、1920年代に日本に売却されるという運命をたどっています。
1930年代前半、済州島人の五人に一人が大阪・済州島航路で日本に渡ってきています。男性は主にゴム工業の職工、女性は紡績の女工となっていきました。「代書」の中では、代書屋は渡航証明書を作成するために、青年の妹の身分関係を明らかにし、戸主が生きていることとし、「土台、戸籍が無茶苦茶」なので、戸主の死亡届とその遅延理由書、妹の出生届とその遅延理由書など、膨大な書類が必要なこと、そのためには大金が必要なことを、済州島からきた青年に告げます。すると青年は呆然となって、「もう結構」と去ります。代書屋は「なんちゅう客や」となげくというわけです。
ここに大事なことがあります。確かに「代書」には、昭和10年代という時代背景の中で、済州島からきた青年を一段低く見るような感じがあり、そこを茶化すようにして笑いをとっています。
しかし、それだけで切って捨てるには惜しい内容を、この作品は持っています。それは二つあります。
第一に、戸主の生年月日を、開国406年と記しています。朝鮮では中国の年号が使われていましたが、「韓国併合」前に朝鮮ナショナリズムが高揚した時期、李氏朝鮮の成立からカウントする開国という年号が用いられていました。ちょっとした話の中に、こうしたことが正確に描かれています。
第二に、最後に青年が上げる驚きの声です。「チニーヤ、タルキマニ」「シルバシヤカンリ、内地コトパ解らん解ラン。テレカンショウロ。ヒレパレヒレパレ。さようなら。・・・・・・・・」これは専門家に聞いたところ、かなり正確な済州島方言だということです。
そのことばをほぼ正確にそのまま写し取っている。米団治師匠は済州島の方言で、この落語の締めをしています。
私は、「代書」の中には、職業上の体験と生活上の実感に支えられた、まわりの人に対する豊かなまなざしがあると考えています。人は信頼できることあるいは重要なことは口コミで伝えます。この済州島の青年は口コミを通じて中濱代書事務所を訪れました。私が米団治師匠の娘さんにお聞きしたところ、「私たちの家にはいつも朝鮮人が出入りしていましたよ」と語っておられました。
日本人が韓国人・朝鮮人を見るときに二つの見方があります。一つは、「不逞鮮人」。何をするかわからないといった見方、もう一つは、「悲哀の民」です。
この両方を乗り越える、したたかでシビアなまなざし、職業上の体験と生活上の実感に支えられたまなざしが、「代書」にはあると思います。
昭和17年、大阪市の人口は300万人になりますが、その1割強が朝鮮人です。「大阪は大阪だけで完結していない」ということはこうした意味です。
(5)豊かなまなざしの中で見えるもの
歴史研究でもしも……は、想像の世界になりますが、私は、米団治師匠が存命であれば東成の中の何に注目したかを考えました。おそらく、師匠も次の3つのことに注目したのではないでしょうか。
(多文化共生センター)
多文化共生センターは、阪神・淡路大震災直後に、外国人地震情報センターとして発足し、平成7年10月に、多文化共生社会の実現を求めることを目的として再発足しました。非常時における経験をもとに、日常時の相談業務を開始し、毎週金曜日は8力国語で生活相談ホットラインを開設、毎週木曜日は通訳付きの医療相談を行っています。また、鶴橋や猪飼野のフィールドワークもしています。
多文化共生センターが東成区に移転してきたのは偶然ですが、必然であるともいえないでしょうか。多文化共生センターは、ニューカマーたちが自然に集まり、オールドカマーも集まる、日本人にも心地が良い場所であり、東成区の文化的なたからものです。
(北中道小学校・民族学級)
昨年11月に第6回北中道マダンが開催され、韓国・朝鮮の歌、遊び、おどりに、生徒の6割が参加しました。全国で第一号の民族学級は、北中道小学校で、昭和20年に「国語講習会」として発足しました。現在、生徒の約3割が韓国・朝鮮人子弟であり、歴史的に韓国・朝鮮にルーツをもつ生徒を加えると4割の生徒が、こつの歴史、二つの文化を背景にもっています。
この北中道小学校のPTAは、PTA活動基本方針の中で、「全ての子どもはPTAの大事な子どもたち」として捉えています。民族学級が在日の子どものためだけにあるとは考えていません。全ての子どものたちは等しくPTAの大事な子どもたちであるとしています。近く、大阪市で「外国人教育方針」が打ち出されると聞いていますが、地域のこのような地道な取り組みが多文化共生社会を実現していくのではないでしょうか。
(精神障害者地域生活支援センターすいすい)
東小橋にある精神障害者地域生活支援センター「すいすい」は、精神障害者の生活の相談に応じたり、食事や入浴サービスなどを提供する施設であり、精神障害者がくつろげる場所です。大阪市としては初めての施設であり、開所にあたっては地元とのいきさつがあったそうですが、それを乗り越えて、大阪市、町会、「すいすい」の三者が合意に達し、これからの運営について協力しあっています。
私たちは「いろいろな文化、いろいろな体、いろいろな心がある」ということに慣れていません。民族、障害といったものと、ひざをつき合わせ声をかけあうこと、つまり、暮らしの中からしか、多文化共生は生まれてこないといえるでしょう。私たちは、空の高い所から東成を見ている訳ではありません。暮らしの中からの多文化共生を進めていくことが重要です。
「楽語荘」、「上方はなし」、「代書」から始まり、米団治師匠が健在であるならば、東成のどこに注目したかに思いをはせて3つのスポットをご紹介しました。これらは小さな島かもしれません。しかし、小さな島は地域を越え、国境を越えて、他の島とづながっていきます。これらのスポットは日々の暮らしの中で、生かそうと思えば、とても大切な宝となることでしょう。そのようなまちになっていくことを願い、私の話を終わります。ご静聴ありがとうございました。
以上
講演に引き続いて、ものづくり文化のまち、多文化共生のまちについて、杉原達先生と桂福車さんのトークが行われました。会場の区民の方々も、トークに加わっていただきました。
(福車師匠)
灯台もと暗しといいますが、私は生まれてこの方、ずっと、東成区内に住んできました。長く住んでいますが、今日の杉原先生のお話を聞いて、知らなかったことが多くあることに気づきました。あっとおどろくこと、意外や意外ということがまだまだたくさんあるようです。
身近なまちを、改めて見直すことが大切なようです。私も「東成区ものづくり文化の広場」の運営委員で、ものづくりのまちの良さを探しています。「住めば都」とか「ふるさと」とかいいますが、どんな方がまちに住んでいるか、どんなものがまちにあるかを知ることが大切だと思います。自分たちの地域を大切に思うことは、自分自身を大切にしないとできないようにも思えます。
さきほど杉原先生から、多文化共生センターが東成区にあるのも偶然ではないというお話がありました。戦後50数年経過していますが、アメリカでは州によりますが、外国人が一人でもいると、その子のために母国語の教師を雇用するといった制度があるそうです。日本でも民族学級や民族学校がありますが、多文化共生という意味では、まだまだ取り組みが必要だと思います。
(杉原先生)
民族学級と民族学校についてお話します。民族学校は、在日の子どもたちだけが通学する学校です。私が勤める大学でもそうですが、民族学校の卒業生は大学受験については回り道をしなければならない状況があります。民族学級は、日本の公立学校の中で、民族の言葉や文化を教えている教室です。北中道、大成、玉津の各学校にあります。朝鮮の子どものためだけに……と思うと多文化共生になりません。
民族学級の担当の先生は、図画や道徳も担当しています。小さい取り組みながらも少しづつ進んできました。北中道小学校PTAが「全ての子どもはみんなの子ども」という考え方を打ち出しましたが、「全ての子どもは東成区の大切な子ども」という取り組みを始めることも重要だと思います。垣根を取り払うことが重要でしょう。
(福車師匠)
垣根を取り払うことが……、そこがなかなか難しくて、垣根をいかにとっぱらうか……。みんなで考えていく必要がありますね。さて、東成区には、たくさんのものづくりの文化があります。
「笠を買うなら深江が名所」ということばは上方落語「東の旅」の発端にもでてきます。東成区には、代々、菅笠づくりを伝えている方がいます。会場に、幸田正子さんがいらしているのでお話を聞いてみましょう。菅は深江でつくっているのですか?
(幸田正子さん 深江菅細工保存会)
昭和36年頃までは深江で菅をつくっていました。田んぼがなくなったので、現在では、福井、富山などから買い入れていますが、深江の苗というものはあります。
(福車師匠)
菅笠づくりに、子どもを含めて区民の方の参加はありますか?
(幸田正子さん)
教育委員会から要請があり、小学校3年生に煎茶敷きづくりを教えています。最近では、煎茶敷きをコースターと呼んだりもしますが、正式には煎茶敷きです。女子大生の人が、卒業論文に菅笠をとりあげた時、煎茶敷きをコースターと呼んだのが最初です。昔は、皿敷きとして海外に輸出したこともあります。
(福車師匠)
カッターナイフのオルファの岡田さんもいらしてます。最初のカッターナイフは3千本制作されたそうですが、「これが売れるやろか」と心配されたそうです。
(岡田三郎 (株)オルファ相談役)
兄は積極的に事業を進めようとしましたが、私は「やめとけ、やめとけ」といっていました。今では全世界で3千本は1時間くらいで売れているでしょう。
(福車師匠)
みなさん、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)を東成区でつくっていたことをご存じですか。大谷秀一さんは、若いと時におじいさんと一緒に名古屋の金の鯱をつくられたそうです。大谷さん、鯱は東成区でつくったのですか。
(大谷秀一さん 大谷相模掾鋳造所)
名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)は、現地で鋳型をつくりましたが、鋳造作業は東成区で行いました。私の処では鋳造までで、金箔貼の専門家の処に引き渡しました。かなりの重量がありトラックで運んだことを思えています。
(福車師匠)
あ一、やはり、東成区でつくっていましたか。
(大谷秀一さん)
鯱は1対2体あり、それぞれ形は違っています。
(福車師匠)
形が違うというのは、狛犬さんみたいですな。さて、今日は、みなさんご存じのグリコのおまけをつくっていた宮本順三さんがいらしてます。この会場のごく近所に、おまけやズンゾ(豆玩舎ZUNZO)という小さなおもちゃの博物館があります。宮本さんはこの博物館の館長さんです。宮本さんはおまけをつくるためにグリコに入社されたそうですが。
(宮本順三さん おまけやズンゾ館長)
私が、面接会場で、「おもちゃが好きで、いつもグリコさんのおまけを見ていますが、実につまらない、ぼくに、おまけ係りをやらせて下さい」といいましたら、「おもしろいやっちゃ」の社長の一声で合格となりました。私は、おまけの“審査員”を子どもにして、視点をかえておまけをつくっていきました。
(福車師匠)
みなさん、一度、おまけやズンゾに立ち寄って見てください。さて、東成区のものづくり文化についてお話をしてきました。今日は、年輩の方も多いので、お聞きしたいことがあります。杉原先生の著書『越境する民』の中にも描かれていますが、五代目笑福亭松鶴師匠が、東成区の片江で、「楽語荘」をつくって住んでいたということです。その息子さんが六代目笑福亭松鶴師匠です。親戚の方が現在も住んでおられると聞いたことがあります。どなたか、その場所をご存じありませんか?
(会場から)
東成区在宅サービスセンターの北側に「楽語荘」はありました。親戚の方も近所に住んでおられます。
(福車師匠)
やはり、そのあたりでしたか。どうもありがとうございます。今日は、東成のたからものを探してきました。身近なところにおられる方を知ることが大切なことであり、多文化共生についても、そうしたことが重要だと思えます。
(岡田三郎さん)
会社の取引先の一つにアメリカの会社があります。社長さんは自宅の中にゴルフ場があるようなお金もちですが、この人がホルモン料理を気に入り、東成に来ると、「つれていけ、つれていけ」といいます。
(福車師匠)
ここにも多文化共生がありました。少し強引でしょうか。時間となりました。杉原先生にまとめをお願いいたします。
(杉原先生)
本日は、東成のたからものをたくさん知ることができ、大変勉強になりました。いろいろな人がおられ、さまざまな活動があることをお互いに知ることが、まちづくりの一歩のようです。
以上
(出所:大阪市東成区役所
『東成区まちづくりブック―ものづくり文化と多文化共生の視点から―』平成12年)
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