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004 今井戸川と大和川の開削

2023年11月6日

ページ番号:32766

 生駒山脈と上町台地に挟まれる河内平野と言われる地域は縄文時代には河内湾という内海でした。京都から淀川、奈良から大和川が流れ込んでいました。大和川は現在のように西方向でなく河内方面に流れ込んでいました。

 5千年近くの間に川が流し出す土砂によって河内湾は埋まってゆきますが江戸時代でも低地帯で大雨になると大和川は頻繁に氾濫しました。中河内、今米村の庄屋中甚兵衛は河内の村々をまとめて幕府に大和川の付け替え(川の流れの変更)を嘆願しました。生涯のほとんどをかけた嘆願の末、川の流れを柏原から西へほぼまっすぐ大阪湾へ替える工事が認められました。

 これについて新たな川の流域となる村々から反対の運動が起きました。理由として新川用地によって自分の農地を失う。新川の流域で洪水の危険にさらされる。東西に流れる川によって南北に通じる川や道が遮断され様々な弊害が出るなどです。いくつかの新川ルートが杭打ちされその都度、該当する現在の東住吉区内の村々は猛反対しました。

 結局、現在のルートで工事は強行され、宝永元年(1704年)2月に開始した工事は10月に竣工しました。大工事にかかわらず8ヶ月で完成しました。付け替えにより苦い思いをする多くの農民がいる一方、河内地域の氾濫被害はなくなり、旧大和川跡も新田開発され河内木綿の栽培地となってゆきました。
今井戸川

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