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中央区(旧東区)の町名(あ行)

2020年1月24日

ページ番号:484164

安土町一~四丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の安土町一~三丁目・上魚屋町・浄覚町の全域および升屋町・御堂前町の各一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって安土町一~四丁目となった。同12年2月10日に東区安土町一~四丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、安土町一~四丁目は新しい安土町一~二丁目の全域および新しい安土町三丁目・新しい備後町三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は近江安土の町人がこの地に移ったことによるとする説と、天正年間(1573~92)諸士の射術調練の地で、射場の垜(あずち)(的の後ろに土で山型に築いたもの)があった(安土町三丁目)ことによるとする説がある。

史跡その他

天正年間、曽呂利新左衛門が秀吉から拝領した邸宅が安土町二丁目に所在したという伝えがあるが、正確な史料はない。
旧上魚屋町は、豊臣時代から伏見本靱町に所在した生魚市場が、慶安元年(1648)に移転した地域であるが、ここは荷揚げ場から遠く、夏場は運送すれば鮮度が落ちるので、出店が京町堀の西端に設けられて毎朝市を立てていた。その後漁師は上魚屋町の本舗への搬入をきらい、出店の雑喉場へ荷下ろしをしたので、遂に延宝年間(1673~81)には雑喉場市場を成立させることとなったと伝えられる。

淡路町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大阪三郷北組の淡路町一~二丁目・北鍋屋町・中船場町・淡路町切丁・津村北之町であったが、明治2年6月2日に各町は東大組に属した。明治5年3月17日、各町をもって淡路町一~五丁目となった。同12年2月10日東区淡路町一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない淡路町一~五丁目は、新しい淡路町一~二丁目の全域および新しい淡路町三~四丁目・新しい平野町四丁目の各一部となった。

史跡その他

一丁目に儒学の私塾である泊園書院が所在した。藤沢東胲が開き、南岳・黄鵠・黄坡と4代140年にわたって引き継がれた。2万冊にのぼる典籍は関西大学に泊園文庫として寄贈され、泊園記念会も結成されている。『泊園書院跡』の碑石が跡地に所在し、大阪市顕彰史跡となっている。碑文に「儒学者藤沢東畡がおこした泊園書院は、明治9年その嫡子南岳によってこの地に再興され、長く文教の維持発展に貢献するところ大であった」と刻まれている。一丁目に廃校となった汎愛小学校跡碑が、三丁目に梅川忠兵衛ゆかりの淡路町碑がある。「冥途の飛脚」の亀屋忠兵衛の店が所在したと伝える。天保年間に広瀬旭荘の塾もあった。四丁目の御霊神社は船場と靱の氏神として親しまれ、鎌倉権五郎景政・莵布良比売神あるいは早良親王を祀るという。円神社とも称ばれた。「秋窓句碑」はじめ「うつぼ」碑、「文楽座之跡」碑もあるが、大阪市顕彰史跡として御霊文楽座跡碑が所在する。碑文に「文楽座は明治17年から大正15年までこの地にあった。御霊文楽の名で親しまれ大阪人の社交や商談の場として大いに繁盛した」とある。植村文楽軒の系統の人形浄瑠璃経営の最後の拠点となったところである。
四大区時代の東区役所が明治13年9月から同19年6月まで汎愛小学校に隣接して所在した。

和泉町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の藤の森町・江戸町・和泉町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。明治5年3月17日に各町をもって和泉町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区和泉町一~二丁目となり、同22年4月1日に市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、和泉町一~二丁目は新しい和泉町一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は伏見町人が移住した地で、ゆかりの伏見和泉町に由来する。

史跡その他

和泉町鴻池家の邸が所在した。

糸屋町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の松尾町・南革屋町の全域と、内骨屋町の一部および南組の与左衛門の各一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に松尾町・南革屋町の全域と与左衛門町・内骨屋町の各一部をもって糸屋町一~二丁目となった。明治12年2月10日に東区糸屋町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、糸屋町一~二丁目は新しい糸屋町一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名の由来は明らかでないが、『初発言上候帳面写』に「右松尾町往古は糸屋町と唱候、伏見より大坂へ引越候由二候事」とあり、伏見町人の移住に由来すると考えられる。

史跡その他

松屋町筋と交わる二丁目のあたりに幕府の牢屋敷があり、引き継がれて明治18年まで監獄として所在した。

今橋一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の今橋一~二丁目と尼崎町一~二丁目であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって今橋一~五丁目となった。明治12年2月10日に東区今橋一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、今橋一~五丁目は新しい今橋一~三丁目の全域および新しい今橋四丁目・新しい北浜一・四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、今橋が架かる町筋に由来する。今橋の名の通り、橋の架設が東横堀のほかの橋よりも遅かったことに基づく。

史跡その他

一丁目の集英小学校校庭に天五に平五、十兵衛横町碑がある。天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の豪邸が向いあって東西に所在したので、南北の道が十兵衛横町と言われた(大阪市顕彰史跡)。ともに両替商を営んでいた。
三丁目の緒方病院の壁に、除痘館跡のレリーフが設置されている。緒方洪庵がこの地に除痘館を移したのは万延元年(1860)である。
同じ三丁目の愛珠幼稚園前の銅座の跡碑の碑文には「近世銅座の精錬と売買はこの銅座で総括していた。銅座の制度は明和3年(1766)から維新までつづき、明治13年その跡に愛珠幼稚園が設けられた」とあり、銅座の跡は大阪市顕彰史跡になっている。愛珠幼稚園の御殿様式の園舎も重要文化財クラスの建築物として注目されている。
三丁目の懐徳堂旧阯碑と懐徳堂旧阯の碑についての板碑は、日本生命の建物の南側壁面に取りつけられている。懐徳堂は大阪の学問所として大きな影響力をもち、町人学者の冨永仲基や山片蟠桃などを輩出した。おびただしい蔵書を引継いだ大阪大学の手で、懐徳堂記念会が運営されている。
二丁目の旧鴻池家本宅跡の表長屋は大阪美術倶楽部の建てかえで生駒市富雄に移築されたが、奥まったところの主屋の建物は昔のまま現存している。
四丁目の大阪倶楽部の筋向いには、篠崎三島の梅花社があった。梅花書屋址碑が設置されている。
四丁目に愛日小学校があり、その愛日文庫に山片蟠桃関係の蔵書が秘蔵されている。

上本町筋二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の上本町四丁目北半の一部であったが、明治2年6月2日に東大組、同3年9月に南大組に属した。同5年3月17日に上本町四丁目北半の一部が上本町筋二丁目の一部となった。同12年2月10日に南区上本町筋二丁目の一部となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない市道上本町線西側以東、府県道大阪枚岡線北側以北の上本町筋二丁目が東区に編入された。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、上本町筋二丁目は上町一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は上町台地での古来からの主要路に位置し、中心となる町筋であることから上本町筋とよばれた。

上町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の上本町三丁目であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に上本町三丁目は上本町一丁目となった。同12年2月10日に東区上本町一丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。昭和19年1月1日に上町となった。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付で住居表示を実施したが、町の名称および区域変更はなかった。

町名の由来

町名は、古来から上町台地上の主要路の両側に位置する町であることに由来する。

内淡路町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の内淡路町一~三丁目であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に内淡路町一~三丁目をもって内淡路町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区内淡路町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、内淡路町一~二丁目は新しい内淡路町二丁目の全域および新しい内淡路町一・三丁目・新しい内平野町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、船場の淡路町通りの東横堀川東側に位置することに由来する。また内は東横堀以東が豊臣時代の大坂城惣構の内にあたることに由来する。

内安堂寺町通一丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の山家屋町・桜町であったが、明治2年6月2日に東大組、同3年9月に南大組に属した。同5年3月17日に山家屋町と桜町をもって内安堂寺町通一丁目となった。同12年2月10日に南区内安堂寺町通一丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年3月31日の行政区画の変更にともない、市道上本町線西側以東の内安堂寺町通一丁目が東区に編入された。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、内安堂寺町通一丁目は上町一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、当町域付近に安堂寺の語源をなす安曇寺が所在したと比定されていたことに由来し、内を冠するのは東横堀以東の市街地が豊臣時代の大坂城惣構の内にあたることに由来する。

内久宝寺町一~四丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の内久宝寺町・上堺町・鈴木町・追手町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に上堺町は内久宝寺町一丁目となり、鈴木町・追手町・内久宝寺町をもって内久宝寺町二~四丁目となった。同12年2月10日に東区内久宝寺町一~四丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、内久宝寺町一丁目は上町一丁目・法円坂一~二丁目の各一部となり、平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、内久宝寺町二~四丁目は新しい内久宝寺町一~二丁目の全域および新しい内久宝寺町三~四丁目・新しい粉川町・新しい龍造寺町・新しい和泉町一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、久宝寺橋通の町筋に所在し、かつ内を冠するのは東横堀以東の市街地が豊臣時代の大坂城惣構の内に当たることに由来する。

史跡その他

二丁目に鈴木町代官町が所在し、明治維新後、これが僅かの間、河内県庁舎として使われた。隣には金奉行の役宅もあった。また、十三間梅という古木がこの付近にあり大阪名所になっていた。銅座の役人が住んでいた銅座屋敷が銅座幼稚園・銅座公園になっている。

内平野町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の亀山町・大沢町・内平野町二丁目であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に亀山町・大沢町・内平野町二丁目をもって内平野町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区内平野町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、内平野町一~二丁目は新しい内平野町一~三丁目・新しい谷町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、町域が船場の平野町通の町筋の延長上に所在することに由来し、かつ内を冠するのは東横堀以東の市街地が豊臣時代の大坂城惣構の内にあたることよる。

内本町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の内本町上三丁目の一部と内本町二丁目・内本町太郎左衛門町の全域であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に内本町上三丁目の一部と内本町二丁目・内本町太郎左衛門町の全域をもって内本町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区内本町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、内本町一~二丁目は新しい内本町一丁目の全域と新しい内本町二丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、町域が船場の本町通の延長上の町筋に所在することに由来し、かつ内を冠するのは東横堀川以東の市街地が豊臣時代の大坂城惣構の内にあたることによる。

内本町橋詰町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の内本町橋詰町であったが、明治2年6月2日東大組に属した。同12年2月10日に東区内本町橋詰町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、内本町橋詰町は本町橋・新しい南新町二丁目・新しい徳井町二丁目・新しい内本町二丁目・新しい鎗屋町二丁目・新しい常盤町二丁目・新しい農人橋三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、本町橋の橋詰にある町という意で、内を冠するのは東横堀以東の市街地が豊臣時代の大坂城惣構の内にあたることに由来する。

史跡その他

享保9年(1724)の大火後、西町奉行所が設けられ、慶応3年(1867)まで続く。以後、次のように使用される。
慶応3年 奉行所役宅
明治元年2月2日 大阪鎮台営所から大阪裁判所、さらに大阪府となる。
明治7年7月19日 廃止
明治8年11月 大阪府立博物場開設
明治19年 博物場敷地拡張
明治20・21年 美術館新築、珍鳥奇獣飼育明治27年 能楽堂開設
明治29年 博物場敷地再拡張、翌年竣工
明治31年 能楽堂改築
大正2年 大阪府立商品陳列場に転換使用、動物園廃園(天王寺動物園開設委譲)、重建懐徳堂開設
大正3~6年 府立商品陳列所工事
大正15年 能楽堂を天満天神に移す

文化的な役割が大きいので列記したが、昭和20年3月14日未明、戦災に遭い重建懐徳堂も消失した。
また、常盤町通を松屋町筋に出た西側に生国魂神社御旅所がある。東区の上町台地西斜面一帯は生国魂神社を氏神とし、夏祭りの陸渡御が盛大であった。
コクサイホテル前の公園の植込の中に西鶴文学碑がある。
大阪市顕彰史跡を示す西町奉行所跡碑が現在は松屋町筋に面した「マイドームおおさか」前にある。碑文に「西町奉行所は享保9年(1724)からこの地におかれ、庶民との関係が深かった。明治時代には市内随一の楽園大阪博物場がここに設けられた」と刻まれている。

越中町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の越中町二丁目全域と越中町三丁目の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に越中町二丁目全域と越中町三丁目の一部をもって越中町となった。同6年11月17日に東成郡に編入され、西玉造村字越中町となった。さらに同22年4月1日の町村制施行にともない西玉造村は玉造村と合併して玉造町字越中町となった。同30年4月1日に大阪市に編入され東区玉造大字西玉造の一部となり、同33年4月1日にもとの越中町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、越中町は法円坂一丁目・森ノ宮中央二丁目・玉造二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、細川越中守忠興邸のあったことに由来する。

史跡その他

細川忠興の妻は明智光秀の三女でキリシタンであったが、慶長5年(1600)大坂方の人質となるのを拒絶し、この邸で自害した。ガラシャ夫人とも呼ばれ、夫人が朝夕使った邸内の井戸が越中井といわれている。歴史の散歩道に組み入れられ、また大阪府史跡にも指定されている。

大川町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の大川町であったが、江戸時代に拾三人町と浜四丁目をもって大川町となって以来一貫した町域をなし、明治2年6月2日に東大組、同12年2月10日に東区大川町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、大川町は新しい北浜三~四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、昔、淀川本流であった土佐堀川・堂島川を大川とよび慣わしていたことに由来し、この町の前を流れていることによる。

史跡その他

淀屋の屋敷跡碑・林市蔵先生肖像および記念像と、それに昭和63年にもう一基『淀屋の屋敷跡』の板碑が淀屋橋南詰西側に建っている。方面委員制度を米騒動の直後に全国にさきがけて発足させた第16代府知事林市蔵を顕彰したものと、ここに広大な屋敷をもち、米市を開いた淀屋の業績を顕彰した淀屋の屋敷跡碑だが、碑文には「近世のはじめ、中之島の開発その他、大阪の発展に貢献するところが多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている」と刻まれている。
 さらに、住友銀行前に二つの碑石がある。一つは俳人松瀬青々の生誕地を顕彰したもの、一つは手形交換所発祥の地を顕彰したもので淀屋の屋敷跡とともに大阪市顕彰史跡となっている。

大手通一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の錦町一~二丁目・折屋町の全域と豊後町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に錦町一~二丁目・折屋町の全域と豊後町の一部をもって大手通一~二丁目となった。同12年2月10日に東区大手通一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない大手通一~二丁目は新しい大手通一丁目の全域と新しい大手通二~三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、大阪城大手門に通じる通りという意味に由来する。城代の市中巡見路として大手筋の名をのこす。

史跡その他

二丁目の骨屋町筋(松屋町筋の1つ東の筋)西北角に大阪市顕彰史跡として大阪活版所跡の碑が建つ。碑文に「明治3年3月、五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により、この地に活版所が創設された。大阪の近代印刷は、ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」とある。本木昌造は文政7年(1824)長崎の北島家に生まれたが、オランダ通訳本木久美の養子となり、世襲のオランダ通訳として活躍した。この時、洋式活版術の実態を知り、和文活字の鋳造を志した。明治2年、長崎において活字の鋳造をはじめたのが日本における洋式活版術の最初である。

大手前之町

町域の変遷

当町は、もと大阪城地の一部であったが、明治初頭大阪府所管となり、明治2年11月2日に兵部省の所管となった。同12年2月10日に東区に編入され、同年5月27日に大阪城地の一部と谷町一丁目の文部省所轄地をもって大手前之町となった。同22年4月1日の市制施行にともないに大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、大手前之町の一部が大阪城となった。平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、残部の大手前之町は大手前二丁目の全域と大手前一・三丁目・新しい谷町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、大阪城の西南の入口の大手口の前に位置する町であることに由来する。

史跡その他

大阪合同庁舎のある場所に昔、東町奉行所が所在し、東町奉行所址碑が建っている。また、明治初頭、舎密局が所在した。舎(せい)密(み)とはオランダ語で理学・化学のことを意味し、大阪ではじめての公立学問所として舎密局が誕生し、明治2年5月1日に開講した。のち第三高等中学校と改称、明治22年京都に移って第三高等学校となった。
 わが国の近代科学揺藍期の記念すべき地で楠の大樹の下に舎密局址碑と史跡舎密局跡碑2基の計3基が設置されているが、舎密局の位置は今の大手通に面した北寄りがその側面になっていた。

岡山町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の岡山町・稲荷門前町・稲荷中の町の各一部であったが、明治2月6月2日東大組、同3年9月南大組に属した。同5年3月17日に岡山町・稲荷門前町・稲荷中の町の各一部をもって岡山町となった。明治6年11月17日に東成郡に編入され、西玉造村字岡山町となった。さらに同22年4月1日の町村制施行にともない、西玉造村は玉造村と合併して玉造町字岡山町となった。同30年4月1日に大阪市に編入され東区玉造大字西玉造の一部となり、同33年4月1日にもとの岡山町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、岡山町は玉造一~二丁目の各一部となった。

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