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中央区(旧東区)の町名(か行)

2020年1月24日

ページ番号:484165

空堀通一丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡の吉右衛門肝煎地の一部であったが、明治6年11月17日に堀村、同15年5月6日に清堀村となった。同22年4月1日の町村制の施行にともない、東成郡清堀村の一部となった。同30年4月1日に大阪市に編入され、東区清堀の一部となった。同33年4月1日に空堀通一丁目の一部となったが、ここにいう空堀通一丁目は昭和18年3月31日以降、同54年1月31日に至る間の府道大阪枚岡線北側以北の東区空堀通一丁目をさす。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、空堀通一丁目は玉造二丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、豊臣時代の大阪城外濠の遺構で、大坂冬の陣のあと関東方によって埋められたため空堀となった窪地地帯であることに由来する。

唐物町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の唐物町一丁目・唐物町二丁目上半・唐物町二丁目下半・唐物町三丁目上半・唐物町三丁目下半・唐物町四丁目・南渡辺町・雛屋町の各一部であったが、明治2年6月2日に各町は東大組に属した。同5年3月17日に南渡辺町を除く各町をもって唐物町一~四丁目の一部となった。同12年2月10日に東区唐物町一~四丁目の一部となり、同22年4月1日の市制施行にともない、大阪市東区に編入された。昭和5年9月20日に南渡辺町の一部が唐物町五丁目の一部となった。ここにいう唐物町一~五丁目は昭和45年1月1日以降、平成元年2月12日に至る間の狭域の唐物町一~五丁目をさす。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、唐物町一~五丁目は新しい南本町一~四丁目・新しい船場中央一~四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は確かな由来はわからないが、江戸時代に長崎での貿易品を唐物といっているので、唐物取扱いと関係があると思われる。

川西町

町域の変遷

当町は明治初頭、東成郡中道村の一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない、中本村大字中道の一部となった。同30年4月1日に大阪市東区に編入された。同33年4月1日に大字中道と大字清堀の一部が中道川西町の一部となった。昭和10年2月1日に川西町の一部となった。ここにいう川西町は同18年3月31日以降、同54年1月31日に至る間の城東線(JR大阪環状線)東側以西の川西町をさす。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、川西町は玉造一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、町域の東側を流れていた猫間川の西側に位置したことに由来するとされている。

瓦町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の瓦町一~二丁目・百貫町・南鍋屋町・三郎右衛門町・津村東之町・津村中之町・津村西之町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって瓦町一~五丁目となった。同12年2月10日に東区瓦町一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、瓦町一~五丁目は新しい瓦町一~三丁目の全域および新しい瓦町四丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、江戸時代の『難波鶴』や『万買物調方記』によれば、建築にかかわる職商売の集団が多く居住していたことが知られ、その源流に瓦葺き職人が居住したことに由来したと思われる。

神崎町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の神崎町・駿河町の全域と南組の松山町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に神崎町・駿河町の全域と松山町の一部をもって神崎町となった。明治12年2月10日に東区神崎町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、神崎町は新しい神崎町・新しい十二軒町の各一部となった。

町名の由来

町名は、町域に所在した朝日神明社に由来するとされる。

史跡その他

朝日神明社は明治40年以後当町域には存在しないが、かっては大阪三神明の一つに数えられていた。『熊野御幸記』に見える坂口王子社に比定され、文治元年(1185)の創建と伝えられる。

北久太郎町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の北久太郎町一~五丁目・南渡辺町・上難波北之町・雛屋町の各一部であったが、明治2年6月2日東大組に属した。同5年3月17日に北久太郎町一~五丁目と雛屋町の各一部が北久太郎町一~四丁目の一部となった。同12年2月10日東区北久太郎町一~四丁目・南渡辺町・上難波北之町の各一部となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。大正3年9月25日、上難波北之町の一部は北久宝寺五丁目の一部となり、昭和5年9月20日に南渡辺町・北久宝寺町五丁目の各一部は北久太郎町四丁目に編入され、南渡辺町の一部は北久太郎町五丁目の一部となったが、ここにいう北久太郎町一~五丁目は昭和45年1月1日以降、平成元年2月12日に至る間の狭域の北久太郎町一~五丁目をさす。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、北久太郎町一~五丁目は、久太郎町一~四丁目・新しい船場中央一~四丁目・新しい北久宝寺町三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名の語源は二説あって、古来からの百済町を訛ったとする説と豊臣氏の家臣堀久太郎の邸址が当町域にあったことに基づくとする説に由来する。当町はその町域を二分した北部地域を町域とする。

史跡その他

当町域に所在する南御堂=難波別院は、慶長3年(1598)から当所にあり、明治初頭には太政官代・西南戦争征討総督本営などに充てられた。
 また南御堂境内本堂南側の植込に芭蕉辞世の句といわれる「旅に病てゆめは枯野をかけまわる はせを」という句碑が所在する。

北久宝寺町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の北久宝寺町一~四丁目・伝馬町・源左衛門町の全域と上難波北之町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に上難波北之町を除く各町をもって北久宝寺町一~四丁目となった。同12年2月10日に東区北久宝寺町一~四丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。大正3年9月25日に上難波北之町の一部が北久宝寺町五丁目となった。昭和5年9月20日に北久宝寺町五丁目の一部が北久太郎町四丁目と渡辺町に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、北久宝寺町一~五丁目は新しい北久宝寺町二丁目の全域および新しい北久宝寺町一・三~四丁目・久太郎町四丁目・新しい南久宝寺町一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名の語源については二説あって、一説は昔、この地に久宝寺という寺があったことに由来するとし、他の一説は道頓堀川開削のとき、河内の久宝寺村の人がその仕事のため移住してきたことによるとする。

北国分町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の国分町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同6年11月17日に東成郡西玉造村に編入され字名となった。同22年4月1日に町村制の施行にともない玉造町大字国分寺となった。同30年4月1日に大阪市に編入され東区玉造大字西玉造となった。同33年4月1日に北国分町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、北国分町は森ノ宮中央一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は昔、ここに摂津の国府があったことに由来すると伝える。天王寺区(当初は南区)に国分町の町名ができたので、これに対し北に位置するので北国分町とした。

北新町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の北新町一~三丁目の全域と與左衛門町・内骨屋町の各一部であったが、明治2年6月2日東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって北新町一~二丁目となった。明治12年2月10日に東区北新町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、北新町一~二丁目は、北新町・新しい糸屋町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、伏見町人が移住により成立した町で、その人たちの伏見での居住地の町名に由来したものとされている。伏見町人が新しく移住した町域を二分し、北部地域にあたる当町を北新町とした。

北浜一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の北浜一~二丁目・過書町・梶木町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって北浜一~五丁目となった。同12年2月10日に東区北浜一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、北浜一~五丁目は新しい北浜二丁目の全域および新しい北浜一・三~四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、『摂津名所図会大成』に「浪花の北方なるを以て北浜といひ又略して浜ともいふ」とあり、大川沿いの北向きの浜という意味に由来する。外北浜(川沿い)と内北浜(陸裏側の筋)の二つの町筋を有する。

史跡その他

現在の大阪証券取引所は江戸時代の大阪金相場会所の跡地にあり、その入口の壁面に大阪市指定史跡として「近世、大阪はもとより全国の標準とされた金銭相場の立会は、寛保5年(1745)以後ここ北浜の金相場会で行われた」とある。
明治8年1月に明治政治史上重要な意義をもつ大阪会議がこの地の専崎楼・花外楼などで行われたので、花外楼ビル入口に大阪会議開催の地の碑が建てられ、「明治8年大久保・木戸・板垣らが大阪に会し、わが国立憲政体の基礎を確立した大阪会議を行ったところである」と刻まれており、大阪市顕彰史跡である。
二丁目一帯は東京の兜町と双璧をなす証券街であり、大阪証券取引所がその中心である。
延享元年(1744)に設置された、俵物を集荷して長崎に送る機関の俵物会所も二丁目の西部の一角に所在した。二丁目には明治7年に大阪最初の弁護士・司法書士の結社北洲社もあった。
三丁目の旧緒方洪庵住宅である適塾は国の重要文化財に指定され、周辺は史跡公園になった。緒方洪庵は岡山の生まれ、17歳で来阪し中天游の門下生となった。江戸・長崎への遊学後、大阪で医業を開くかたわら塾をおこす。これが適塾で、明治維新時の多くの人材を輩出した。
四丁目の内北浜の通りに米方両替の升屋平右衛門家が所在し、番頭であった升屋小右衛門は山片蟠桃を名のり『夢の代』を著した町人学者として著名であった。夥しい蔵書を残し、愛日文庫として保存されている。
この升屋の跡地に明治時代に帝国座ができる。「帝国座は明治34年、新派劇の先駆者川上音次郎によってこの地に建てられたもので、大阪における最初の純洋式劇場であった」と碑石に刻まれている。

紀伊国町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の紀伊国町全域と越中町三丁目の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって紀伊国町となった。同6年11月17日に東成郡に編入され、西玉造村の字名となり、同22年4月1日の町村制の施行にともない玉造町大字紀伊国町となった。同30年4月1日に大阪市に編入され東区玉造大字西玉造となった。同33年4月1日に紀伊国町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、紀伊国町は法円坂一丁目・上町一丁目・玉造二丁目の各一部となった。

史跡その他

現在この町域には聖マリヤ大聖堂があり、大阪にゆかりの深いキリシタン大名の高山右近像と細川ガラシャ像が入口両側に建つほか、ガラシャ記念碑が大聖堂の前庭にあり顕彰されている。

京橋一~三丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の京橋二~六丁目と公収火除地(旧京橋一丁目)であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって京橋一~三丁目となった。同12年2月10日に東区京橋一~三丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。昭和8年3月20日に網島町・相生町の各一部が京橋一丁目に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、京橋一~三丁目は天満橋京町・北浜東・大手前一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、この地が昔から京都へ水陸路で通じる要地となっており、古大和川(寝屋川)に京都に通じる橋、すなわち京橋が架けられたが、町名はこの橋名に由来する。

史跡その他

楠木正成・正行の軍が敗走する山名・細川の軍勢の溺れるのを救った場所と伝え、『太平記』の記述に従い、松坂屋裏の大川沿いに小楠公義戦之跡碑が建っている。
江戸時代は、八軒家とよばれ京都方面からの船着場で、三十石船が発着した。八軒家船着場の跡の碑が土佐堀通の南側にあるが、八軒家船着場は天満橋~天神橋間の道路の北側の川沿いに位置した。

京橋前之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大阪府所管となり、明治2年11月2日に兵部省の所管となったが、同12年2月10日に東区に編入され、同年5月27日に京橋前之町となった。同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、京橋前之町の一部は大阪城の一部となった。平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、京橋前之町の残部は大手前一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、京橋の前面に位置する町ということに由来する。

史跡その他

豊臣時代の大坂城の三の丸に当たる。享和9年の火災で火除地として公収された。それ以前には青物市場が所在したとされる。

黒門町

町域の変遷

当町は明治初頭、東成郡中道村の一部であったが明治22年4月1日の町村制の施行にともない中本村大字中道の一部となり、同30年4月1日に大阪市東区に編入された。同33年4月1日に大字中道の一部が中道黒門町の一部となった。昭和10年2月1日に黒門町の一部となった。ここにいう黒門町は同18年3月31日以降、同54年1月31日に至る間の城東線(JR大阪環状線)東側以西、府県道大阪枚岡線北側以北の東区黒門町をさす。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、黒門町は玉造一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、豊臣時代に大坂城玉造門のあったところとの説(『大阪府全誌』)により、黒塗りの門であったことに由来する。

高麗橋一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の高麗橋一~五丁目・上人町・四軒町・大豆葉町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって高麗橋一~五丁目となった。同12年2月10日に東区高麗橋一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、高麗橋一~五丁目は、新しい高麗橋三丁目の全域および新しい高麗橋一~二・四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、高麗橋の通の町筋であることに由来する。橋名は朝鮮国使の来朝のために架けられたためとか、昔の難波宮高麗館が橋の東にあったためとも伝えられているが確証はない。
 

史跡その他

高麗橋は江戸時代の公儀橋で、明治初頭に大阪最初の鉄橋となった。高麗橋の通りには江戸時代から大阪を代表する商舗が立ち並んだ。
四丁目に大阪商法会議所跡の碑があり大阪市顕彰史跡になっている。碑文に「明治11年8月五代友厚らにより大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)が創設され明治維新の変革期に大阪経済の再生と近代化がはかられた」とある。五代友厚が初代会頭となり、先覚者的情熱とすぐれた経済感覚で大阪経済の建て直しをはかり、今日の産業都市の基礎を築いた。
 

高麗橋詰町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の内両替町全域と内平野町の一部であったが、明治2年6月2日東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって高麗橋詰町となった。同12年2月10日に東区高麗橋詰町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、高麗橋詰町は東高麗橋・北浜東・新しい石町二丁目・新しい島町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、高麗橋の橋詰にある町であることに由来する。
 

史跡その他

江戸時代の大阪の銀座が、高麗橋を東へ進んだ南側に所在した。大阪市の顕彰史跡として大阪銀座跡の碑が設けられ、碑文に「大阪の銀座は慶長13年(1608)に置かれ、生野・石見などの産銀を受け取って、京都の銀座へ送る出店として、明治維新まで存続した」とある。銀座のおこりは慶長3年(1598)に伏見に銀貨の鋳造所を設けたことに始まる。
また、高麗橋東詰に里程元標が置かれたことを顕彰して、橋の東北のたもとに里程元標跡の碑が高麗橋の碑とともにおかれている。道頓堀まで22丁、川口波止場まで25丁というのが当時の市中主要部へ行く高麗橋からの距離であった。碑文に「明治時代に高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離計算は、ここを起点として行われた」とある。

粉川町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の粉川町・聚楽町の全域と南組の松山町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって粉川町となった。同12年2月10に東区粉川町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、粉川町は新しい粉川町・新しい十二軒町・新しい神崎町・新しい谷町五丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、伏見町人の移住してきた町であることから、町名も伏見から移したといわれている。
 

石町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の石町と弥兵衛町であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって石町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区石町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、石町一~二丁目は新しい石町一丁目の全域および北浜東・天満橋京町・新しい石町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、『摂津名所図会大成』に、「大江岸に国府ありて其古蹟を国府町といふ、後世石町と書誤れり」とその由来が書かれている。異説として存在する「座摩の御旅所に神石あるを以て石町と称するの縁」を後世のつくり事としている。事実昭和62年に、町域での遺跡調査で摂津国府を思わせる遺物が出土した。
 

史跡その他

この地に摂津国府がおかれたのは延暦24年(805)から天長2年(825)までとされ、『浪速国志』によると、国府町は大伴氏の旧跡と伝えている。
坐摩神社御旅所があるが、坐摩神社のもともとの社はこの地またはこの周辺に比定されている。神石は神功皇后の朝鮮出兵帰還の際の休憩石との伝承をもつ。
明治初期に花外楼や専崎楼とともに大阪会議の舞台となった三橋楼が所在した。のちに二コライ公堂となった場所である。
天神橋南詰の京橋から石町にかけては江戸時代の紀州邸址で、そのことを示す碑が大阪郵政局ビルの松屋町筋側に建っている。

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