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中央区(旧東区)の町名(た行)

2020年1月24日

ページ番号:484167

谷町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、鉄砲同心屋敷跡と大坂三郷北組の谷町一~三丁目と南組の錫屋町・南谷町・北谷町の全域および内本町三丁目の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって谷町一~五丁目となった。元鉄砲同心屋敷跡を谷町二丁目に編入した。明治12年2月10日に東区谷町一~五丁目となった。同12年5月27日に谷町一~二丁目の各一部は大手前之町へ編入された。明治22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、谷町一~五丁目は、新しい谷町一丁目の全域および新しい谷町二~五丁目・新しい和泉町一丁目・新しい糸屋町一丁目・新しい内淡路町一丁目・新しい北新町・新しい内久宝寺町三丁目・新しい龍造寺町・大手前一丁目・新しい常磐町一丁目・新しい農人橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、大坂城地の西側の南北に延びる谷状の地形に由来する。

史跡その他

大阪英語学校・大阪開成所の碑石が三和銀行谷町支店のところに建っているが、ここは舎密局の一部で舎密局の碑のあるところに英学校が所在したことが、明治初頭の各種地図によって明白になっている。

玉造町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の袮宜町・稲荷門前町・岡山町の各一部および西成郡の吉右衛門肝煎地の一部であった。明治2年6月2日に南組の各町は東大組に属し、同5年3月17日に東大組の各町をもって袮宜町となり、明治6年11月17日に東成郡西玉造村の字地となった。同15年5月6日に吉右衛門肝煎地の一部は清堀村に属した。同22年4月1日の町村制の施行にともない西玉造村は東成郡玉造町となり、清堀村も東成郡に編入された。同30年4月1日に玉造町および清堀村は大阪市東区に編入され、玉造大字西玉造および清堀の各一部となった。同33年4月1日に西玉造字袮宜町の全域と清堀の一部が玉造町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、玉造町は玉造二丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、古代からの大坂城東南一帯の地名である玉作によるが、玉作の由来は玉作氏または玉造部の居住していたところに由来する。

玉堀町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組大和橋町全域および西成郡の吉右衛門肝煎地の一部であった。明治2年6月2日に大和橋町は東大組に属し、同6年11月17日に東成郡西玉造村の字地となった。同15年5月6日に吉右衛門肝煎地の一部は清堀村に属した。同22年4月1日の町村制の施行にともない、西玉造村は東成郡玉造町となり清堀村も東成郡に編入された。同30年4月1日に玉造町および清堀村は大阪市東区に編入され、玉造大字西玉造および清堀の各一部となった。明治33年4月1日に西玉造字大和橋町の全域と清堀の一部が玉堀町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、玉堀町は玉造一丁目・森ノ宮中央一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、この地域の総称の玉造の玉と天保9年開削の猫間川入江の堀割が町域にあることを合成して名付けたことに由来する。

釣鐘町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の釣鐘町・釣鐘上の町・近江町であったが、明治2年6月2日に北大組に属した。同5年3月17日に各町をもって釣鐘町一~二丁目となった。明治12年2月10日に東区釣鐘町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、釣鐘町一~二丁目は新しい釣鐘町二丁目の全域および新しい釣鐘町一丁目・東高麗橋の各一部となった。

町名の由来

町名は、当町域に設けられた釣鐘屋敷に由来する。

史跡その他

『大阪町中時報鐘』の名称で知られる釣鐘は現在は二丁目南側に復帰している。寛永11年(1634)大阪城に立寄った三代将軍家光が、大阪町中の地子銀(固定資産税)を永久に免除すると約束したことから、恩恵に感激した土地所有者の有力町人が記念事業として釣鐘の製造を思い立ったもので、八軒家付近の高台の地を選んで据えつけたのが当町域の釣鐘屋敷である。

寺山町

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡の吉右衛門肝煎地であったが、明治15年5月6日に清堀村の一部となり、同22年4月1日の町村制施行にともない東成郡に属した。同30年4月1日に大阪市東区に編入され、清堀となった。同33年4月1日に寺山町となった。

住居表示の実施

昭和54年2月1日の住居表示の実施にともない、寺山町は上町一丁目の一部となった。

町名の由来

町名の由来は定かでないが、当町域が地形的に小山を成し、寺院と関係するものと推定すると意外にその由来がはっきりするかも知れない。

史跡その他

寺山町は江戸時代の城代屋敷の跡だが、戦災を受けるまで豊臣秀頼の胞衣を納めたと伝えるヨナ塚が所在した。

常盤町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の常盤町一~四丁目であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に常盤町一~四丁目をもって常盤町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区常盤町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、常盤町一~二丁目は新しい常盤町一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、伏見町人の移住した地で、徳川初期には伏見立売町一~四丁目となっていたが、延宝8年(1680)に常盤町一~四丁目と改称されており、町名の由来は定かでない。

徳井町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の徳井町・大津町の全域と松江町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に徳井町・大津町の全域と松江町の一部をもって徳井町一~二丁目となった。同12年2月10日に東区徳井町一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、徳井町一~二丁目は新しい徳井町一丁目の全域と徳井町二丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、伏見町人の移住した地であることから、町名も伏見から移ったものと考えられる。

道修町一~五丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の道修町一~五丁目・古手町の全域であったが、明治2年6月2日に東大組に属した。同5年3月17日に各町をもって道修町一~五丁目となった。同12年2月10日に東区道修町一~五丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市東区に編入された。
 

住居表示の実施

平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、道修町一~五丁目は新しい道修町一~三丁目の全域と新しい道修町四丁目の一部となった。

町名の由来

町名の由来については諸説があるので列記すると、①昔、「道修谷」と呼ばれていたことに由来する。②道修寺という寺院があったことによる。③北山道修という人物がこの地で医院を開いたことに由来する。この説には北山某が道修谷に来て道修を号としたという逆説もある。④私塾が多く存し、修学修道の地であることに由来するなど多様である。

史跡その他

この町は江戸時代から薬種問屋街として著名で、とくに二~三丁目に集中している。神農さんはもとは薬祖神として薬種改所(薬種組合)の神棚に祀られていたもので、安永9年(1780)から少彦名命を奉斎しているが、現在は少彦名神社として一社を成している。
 文運の盛んな街で俳人小西来山や歌舞伎作者の並木五瓶をはじめ、近代では子規一派の青木月斗・島道素石、高安医院の一族などを輩出した。谷崎潤一郎の春琴抄の舞台でもある。

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