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中央区(旧南区)の町名(あ行)

2020年1月24日

ページ番号:484178

安堂寺橋通一~四丁目

町域の変遷

当町は明治初頭大坂三郷南組の安堂寺町一~五丁目(二丁目は上半・下半に分れる)・北勘四郎町であったが、明治2年6月2日に東大組、同3年9月に南大組に属した。同5年3月17日に安堂寺町一~五丁目・北勘四郎町をもって安堂寺橋通一~四丁目となった。同12年2月10日に南区安堂寺橋通一~四丁目となり、同22年4月1日の市制施行により大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、安堂寺橋通一~四丁目は南船場一~四丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は安堂寺橋の西に連らなる町であることに由来する。安堂寺は安曇寺の転訛と伝えられ、『日本書紀』や『続日本紀』に記される「安曇寺」「安曇江」に比定できる寺社および入江が当町付近に所在したとの説によるが、近年の学説では否定的である。

史跡その他

安堂寺橋通一丁目の油掛地蔵は古来から有名で、『難波鑑』には「安堂寺町東堀壹丁目の門の脇に、あぶらかけの地蔵とていにしへよりあり。此地蔵よく瘧病(ぎやくびよう)をなをし給ふとて其宿願には縄をかけ置、やまひ愈(いゆる)時(とき)は、かならす縄をときらいらする」と祈願方法を述べ発作を治すとしているが、明治時代には油を頭から注いだという。この地蔵の背に 「天平十一年安曇寺安置」と刻字されていたと伝え、安曇寺の石像とされた時代があった。
三丁目には、大阪市顕彰史跡として橋本宗吉絲漢堂跡碑があり、碑文に「絲漢堂は大阪蘭学の祖といわれる橋本宗吉によっておこされた。彼は電気学にもすぐれた先覚者で、多くの英才を世に出した」とある。

生玉町

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡西高津村の一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない東成郡となった。同30年4月1日に大阪市に編入され、東区西高津字生玉の一部となった。さらに同33年4月1日に字生玉の一部が生玉町となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない、天王寺区に編入された。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない、天王寺区生玉町のうち市道九条高津第一号線(千日前通)北側以北が南区生玉町となった。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、生玉町の一部は新しい谷町九丁目・高津一丁目・中寺二丁目の各一部となった。同58年2月1日の住居表示の実施にともない、残部の生玉町は高津三丁目の一部となった。

町名の由来

町名は生国魂神社に由来する。

上汐町一~三丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、東成郡北平野町の一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない東平野町大字北平野の一部となった。同30年4月1日に大阪市に編入され、東区東平野大字北平野の一部となり、同33年4月1日に東平野町一~六丁目となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない、天王寺区に編入された。翌15年1月1日に東平野町一~二丁目の一部が上汐町一丁目に、東平野町三~四丁目の一部が上汐町二丁目に、東平野町五丁目の一部が上汐町三丁目の一部となった。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない天王寺区上汐町一~二丁目全域と、上汐町三丁目のうち市道九条高津第1号線(千日前通)北側以北が、南区上汐町一~三丁目となった。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、上汐町一~三丁目は新しい谷町七~八丁目・上汐一~二丁目・東平一~二丁目・上本町西三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は塩町通と区別するため上町台地の汐町という意味を持つ一方、「汐町」は菅原道真が潮待寺で潮の満ちるのを待ったことから起こったと伝えられる。しかし、潮待天神を祀った天然寺は天王寺区八丁目中寺町(現・城南寺町)にあり、必ずしもこれに依るといえない一面をもつ。

上本町四~六丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、東成郡の清堀村・東高津村の各一部であったが、明治22年4月1日の町村制の施行にともない東高津村は東平野町となった。明治30年4月1日に大阪市に編入され、東区の清堀・東平野大字東高津の各一部となり、明治33年4月1日に上本町四~六丁目となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない、上本町四丁目は東区、上本町五~六丁目は天王寺区に編入された。大正15年1月1日に上本町五丁目の一部が、東高津北之町に編入された。昭和18年3月31日の行政区画の変更にともない、東区上本町四丁目は天王寺区に編入され、翌4月1日に上本町四丁目のうち市道上本町線西側以西、および天王寺区上本町五~六丁目のうち市道上本町線西側以西・市道九条高津第一号線北側以北の地域が南区上本町四~六丁目となった。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、上本町四~六丁目は上本町西三~五丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は上町台地の本(中心)をなす町という意味をもつ。実際、昔より南北の道が城地から四天王寺東門に延び主要道となっている。

史跡その他

この町は寺町で北から大念寺・長楽寺・白雲寺・専念寺・誓願寺・源光寺・西光院妙応寺・西海寺・無量寺庵と並んでいた。
このうち誓願寺は、中井甃庵・竹山・履軒、そして大阪市顕彰史跡である中井一族と井原西鶴の墓がある。その碑文には「西鶴(1642~93)は人文主義に徹した文豪である。中井氏は甃庵・竹山・履軒ら父子継承して、儒学を修め、私塾懐徳堂を創建(1724)運営した」とある。
西鶴は近松・芭蕉と並んで元禄文学を花と咲かせた。西山宗因門下の花形俳諧師としても、 「好色一代男」など数多い作品の小説家としても著名。〈浮世の月見過しにけり末二年〉が辞世の句。誓願寺の墓地にある「仙皓西鶴」と刻まれた墓は、明治の文人幸田露伴が同寺の無縁墓群から発見したもの。〈鯛は花は見ぬ里もありけふの月 西鶴〉の句碑もある。
また中井一族は儒学を家の学問とし、私立学問所の先駆・懐徳堂を150年にわたり経営した。大念寺には童話人塚・筆塚がある。明治39年に寺子屋の師四楽水の門人が建てた。

上本町筋二~三丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の上本町四丁目北半・上本町四丁目南半・札之辻町であったが、明治2年6月2日に東大組、同3年9月に南大組に属した。同5年3月17日に上本町四丁目北半・上本町四丁目南半と札之辻??町をもって上本町筋二~三丁目となった。同12年2月10日に南区上本町筋二~三丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年3月31日の行政区画の変更により、上本町筋二丁目のうち市道上本町線西側以東と府県道大阪枚岡線北側以北が、東区に編入され、翌4月1日の行政区画の変更にともない、残部の上本町筋二丁目のうち市道上本町線西側以東と府県道大阪枚岡線北側以南が、天王寺区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、上本町筋二~三丁目は上本町西一~三丁目・安堂寺町一丁目の各一部となった。

町名の由来

史跡その他

大坂城三の丸の南面に位置し札之辻口門があった。

内安堂寺町通一~三丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の桜町・坂田町・内安堂寺町・播磨町・尾張坂町の全域と丹波屋町の一部であったが、明治2年6月2日に東大組、同3年9月に南大組に編入された。同5年3月17日に桜町・坂田町・内安堂寺町・播磨町・尾張坂町の全域と丹波屋町の一部をもって内安堂寺町通一~三丁目となった。同12年2月10日に南区内安堂寺町通一~三丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年3月31日の行政区画の変更により、内安堂寺町通一丁目のうち市道上本町線西側以東が東区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、内安堂寺町通一~三丁目は安堂寺町一~二丁目・新しい松屋町の各一部となった。

町名の由来

⇒「安堂寺橋通一~四丁目
町名は安堂寺橋の東に連なる台地上の、大坂城惣構えの内にある町であることに由来する。安堂寺は安曇寺の転訛と伝えられるが、近年の学説では否定的である。

史跡その他

内安堂寺町通を東に直進すると玉造から暗越奈良街道につらなるが、江戸時代には谷町から東のこの通りは城代の巡見通行路であった。一丁目の宝泉寺の本尊が聖徳太子作と伝える聖観世音で、寛永年間(1640年ごろ)にここに移ったという。旧町名をとって桜町観音ともいわれた。八の日の夜店は昭和初期まで大阪名所に数えられた。二丁目の御祓筋東入南側に直木三十五の誕生地があり、文学碑が建つ。

鰻谷中之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の長堀次郎兵衛町の一部と南組の高間町の全域および鰻谷二丁目・長堀茂左衛門町・長堀心斎町の各一部であったが、明治2年6月2日に長堀次郎兵衛町・長堀心斎町は東大組、高間町・鰻谷二丁目・長堀茂左衛門町は南大組にに属した。明治3年9月には長堀次郎兵衛町・長堀心斎町が南大組に編入された。同5年3月17日に高間町の全域と鰻谷二丁目・長堀茂左衛門町・長堀次郎兵衛町・長堀心斎町の各一部をもって鰻谷中之町となった。明治12年2月に南区鰻谷中之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、鰻谷中之町の一部は南船場二~三丁目の各一部となった。平成元年2月13日に東区は南区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、残部の鰻谷中之町は新しい心斎橋筋一丁目・東心斎橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は地勢に由来し、島之内に町割ができた元和(1615)当初からの呼称である。付称の「中之町」はその東西に細長くのびた鰻谷の中央部に位置することによる。

史跡その他

明治中期まで中橋筋西入りの寺井安四郎灘安という酒造屋があり、主人が浄瑠璃の彦六座を組織し、二代目柳適大夫となった。俳人上島鬼貫は丼池筋東入南側の和躐問屋亀屋の離れ座敷で没したという。隣に享保12年(1727)創業の長崎の本町人であった吉野五運経営の人参三臓円本舗が所在した。

鰻谷西之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の尾上町の全域と長堀十丁目・長堀平右衛門町の各一部であったが、明治2年6月2日に長堀十丁目・長堀平右衛門町は東大組、尾上町は南大組に属した。同3年9月には長堀十丁目・長堀平右衛門町が南大組に編入された。同5年3月17日に尾上町の全域と長堀十丁目・長堀平右衛門町の各一部をもって鰻谷西之町となった。同12年2月10日に南区鰻谷西之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、鰻谷西之町の一部は南船場三~四丁目の各一部となった。平成元年2月13日に東区は南区と合区し中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、残部の鰻谷西之町は新しい心斎橋筋一丁目・西心斎橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

⇒「鰻谷中之町
付称の「西之町」はその東西に細長くのびた鰻谷の地域の西部に位置することによる。

史跡その他

佐野屋橋筋南西角に明治45年1月に近松座が建ったが、僅か2年数ヵ月で閉場し、その後、昭和4年12月に同所に文楽座が誕生した。文楽初の近代的劇場であったが、昭和31年に閉場した。

鰻谷東之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の鰻谷一丁目の全域と長堀茂左衛門町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に鰻谷一丁目の全域と長堀茂左衛門町の一部をもって鰻谷東之町となった。同12年2月10日に南区鰻谷東之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、鰻谷東之町は島之内一丁目・南船場一丁目の各一部となった。

町名の由来

⇒「鰻谷中之町
付称の「東之町」はその東西に細長くのびた鰻谷の地域の東部地域に位置することによる。

史跡その他

住友旧邸前に大阪市顕彰史跡としての顕彰碑住友銅吹所跡碑が建ち、碑文に「この地は寛文年間から明治6年まで住友銅吹所のあったところで、江戸時代を通じ、わが国銅精錬業の中心であった」とある。寛永年間(1640年ごろ)住友家二代理兵衛友以により設けられたもので、間吹・南蛮吹・小吹といった各種の炉が整然と並び、別に数棟の銅蔵があって全国一の規模を誇った。銅吹所の閉鎖は明治12年ごろとされている。

御蔵跡町

町域の変遷

当町は明治初頭、東成郡の天王寺村の一部および御蔵跡一円であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同6年11月17日に旧幕の御蔵跡一円と、東方の天王寺村入地を編入して御蔵跡町となった。同12年2月10日に南区御蔵跡町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない御蔵跡町のうち市道堀初橋線北側以北が南区御蔵跡町となった。

住居表示の実施

昭和58年2月1日の住居表示の実施にともない、御蔵跡町は日本橋二丁目・高津三丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、宝暦2年(1752)から寛政3年(1791)の間、所在した幕府の米蔵の跡地が町域であったことに由来する。

史跡その他

この御蔵場は東西71間(約140m)・南北90間(約177m)の面積を有し、天王寺村領にはいるので、天王寺御蔵または高津新地御蔵ともよばれた。もとは鋳銭場で寛保元年(1741)から5年間、銅銭を鋳造していた。

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