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中央区(旧南区)の町名(か行)

2020年1月24日

ページ番号:484179

笠屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の南笠屋町・道頓堀御前町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって笠屋町となった。同12年2月10日に南区笠屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、笠屋町は東心斎橋一~二丁目・新しい宗右衛門町の各一部となった。

町名の由来

町名は、旧名の一部の道頓堀塗師(ぬし)屋町に基づく。塗師は漆塗職人のことで、昔の傘には安物の漆が塗られたから、ここの塗師屋が傘屋=笠屋に関わっていたことに由来すると考えられる。

史跡その他

ここは江戸時代は芝居の興業主として有名だった植久の家もあった町で、八代目市川団十郎はこの植久の家で自殺した。
昭和初期には市川右団次・実川八百蔵・中村翫雀・中村福助の歌舞伎役者の住宅が軒を並べ、いなばやという古い提灯屋が各花街の踊りの提灯をつくっていた。

鍛冶屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の鍛冶屋町一~二丁目全域と関町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって鍛冶屋町となった。同12年2月10日に南区鍛冶屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、鍛冶屋町は島之内一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は鍛冶職が居住したことに由来する。

河原町一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡難波村の一部であったが、明治30年4月1日に大阪市に編入され、南区難波大字難波となり同33年4月1日に難波河原町一~二丁目となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない浪速区に編入され、翌4月2日に河原町一~二丁目となった。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない、河原町一丁目全域と河原町二丁目のうち市道南北線北側以北が、再び南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、河原町一~二丁目の各一部は難波千日前・難波三丁目・千日前一~二丁目の各一部となった。同58年2月1日の住居表示の実施にともない、残部の河原町一~二丁目は日本橋一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、町域内に東西に流れる溝があり、その溝の両側が河原となっていたことに由来する。北の磧(かはら)・南の磧(かはら)とよばれていて、溝の側と俗によばれていた。

史跡その他

明治7年以前は千日墓地であり、北側に刑場が、南側に火葬場があった。刑場跡を奥田弁次郎・ふみ夫妻が開発して見世物興業を中心とした大歓楽場に仕上げた。南の大火後は、映画館や演芸場を中心とした興業街となると同時に、古物家具商が集まった。
 一丁目の三津寺墓地内にちぎり地蔵尊の碑石、戯曲で有名な三勝半七の比翼塚と伝えられるもの、安井道頓・道卜の五輪塔がある。ここは、もと松林庵墓地であった。

瓦屋町一~五番丁

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の南瓦屋町・西高津町の各一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同4年5月8日に南瓦屋町は南瓦屋町一~五丁目となり、同5年3月17日に南瓦屋町一~五番丁の全域および西高津町の一部をもって瓦屋町一~五番丁となった。同12年2月10日に南区瓦屋町一~五番丁となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない瓦屋町一~四番丁の全域および瓦屋町五番丁の一部は瓦屋町一~二丁目の全域と瓦屋町三丁目・高津一丁目・中寺一丁目・新しい谷町六~七丁目・新しい松屋町の各一部となった。同58年2月1日の住居表示の実施にともない残部の瓦屋町五番丁は高津二丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、徳川家の御用瓦師寺島宗左衛門が大坂落城後この地を与えられ、以後代々瓦を製造し瓦師支配をなしたことに由来する。

史跡その他

紀州出身の寺島三郎左衛門が天王寺に来て瓦職を業とし、豊臣家の瓦の用命を受け、また養子宗左衛門とともに徳川家康に謁し、徳川家の御用瓦師となった。大坂冬・夏の陣に宗左衛門は大坂城中の情況を探って徳川方に報じたので、その居宅は大坂方に焼かれたが、大坂落城後に徳川家から四万六千坪の土地を与えられた。
寺島氏は尼ヶ崎・山村両家とともに江戸時代の大坂三町人の一人で、三番丁の瓦屋橋東詰に屋敷を構えていた。屋敷内に大坂六清水の一つの寺島清水があった。そこから東へ、金甌小学校あたりに常陸土浦藩蔵屋敷があり藩主土屋相模守に因んで相模屋敷とよばれた。金甌小学校内に土屋相模守蔵屋敷跡の碑石がある。また、松屋町筋西側歩道上に贈正五位大利鼎吉遭難之地の碑石がある。さらに、高津植木屋として有名な吉助牡丹があった。元禄5年(1692)松井吉助か開いた植木屋で、牡丹と芍薬の珍種を栽培して大阪名物の一つであった。もう一つ高津黒焼き屋も有名であった。

北炭屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の炭屋町・長堀平右衛門町の各一部であったが、同2年6月2日に炭屋町は南大組、長堀平右衛門町は東大組、同3年9月にはいずれも南大組に属した。明治5年3月17日に炭屋町・長堀平右衛門町の各一部をもって北炭屋町となった。同12年2月10日に南区北炭屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、北炭屋町の一部は南船場四丁目の一部となった。平成元年2月13日に東区は南区と合区し中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、残部の北炭屋町は西心斎橋一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、西横堀川と長堀川の交差する四つ橋以南の西横堀川沿いに、長堀薪炭問屋が集まっていたことに由来する。炭屋町を二分して北部地域を北炭屋町とした。当地は西横堀川に沿っており水運の便もよく、銅吹屋が近くに集まっており、薪炭を供給するのに絶好の地であった。

史跡その他

史跡その他 当町の北西端に北に向かい炭屋橋が、西に向かい下つなぎ橋が架かっていた。吉野屋橋・上つなぎ橋とともに四つ橋を成していた。

北桃谷町

町域の変遷

当町は明治初頭、五十軒屋敷・瓦土取場および西成郡の吉右衛門肝煎地であったが、明治元年11月26日瓦土取場は新瓦屋町となり、同2年6月2日に同町は東大組に同3年9月には南大組に属した。明治6年11月17日に吉右衛門肝煎地の一部と、新瓦屋町飛地および五十軒屋敷の全域をもって北桃谷町となった。同12年2月10日に南区北桃谷町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、北桃谷町は上本町西一~二丁目・新しい谷町六丁目・安堂寺町一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、土地に高低があって桃林が多かったことに由来する。桃谷町を二分して北部地域を北桃谷町とした。

史跡その他

国道308号に近い地域には、江戸時代に鉄砲同心・具足同心・破損同心の居住した屋敷があったが、とくに鉄砲同心の邸が50軒あまりあり、五十軒屋敷と称せられた。

久左衛門町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の道頓堀久左衛門町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に道頓堀久左衛門町の一部が久左衛門町となった。同12年2月10日に南区久左衛門町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、久左衛門町は西心斎橋二丁目・新しい心斎橋筋二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、明暦元年(1655)の水帳にある町年寄播磨屋久左衛門に由来すると思われる。

史跡その他

寛政6年(1794)から新戎橋北詰に米相場が立った。当町から九郎右衛門町に架かる大黒橋は、木津大黒主神社への参詣道に架かる橋としてかく名付けられた。

九郎右衛門町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の道頓堀九郎右衛門町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に道頓堀九郎右衛門町は九郎右衛門町となった。同6年11月17日には、難波村の難波新地祇園町・難波新地字新川の各一部を編入した。逆に当町の付属地であった難波入堀(新川)西側は、難波村に編入された。同12年2月10日に南区九郎右衛門町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施の実施にともない、九郎右衛門町は道頓堀一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、寛永10年(1633)に京都から来阪し、道頓堀南で若衆芝居を始めた塩屋九郎右衛門の名に由来する。

史跡その他

この地では、天保14年(1843)から泊茶屋が認められ大七・富市・河作の振舞茶屋が出現した。大七のあとが松竹座で大阪松竹歌劇団の発祥の地となった。松竹座は大正12年5月新築開場。また、新戎橋南詰に出世地蔵尊が祀られる。

高津町一~十番丁

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の西高津新地一~九丁目の全域および道頓堀立慶町西高津町・高津五右衛門町と西成郡の西高津村の各一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に西高津新地一~九丁目の全域および道頓堀立慶町・西高津町・高津五右衛門町の各一部が高津町一~十番丁となった。同6年11月17日に西高津村高津宮鳥居内の地所を高津町一番丁に、字西寺町孔雀茶屋の地所を高津町五番丁に、字糸引庵の地所を高津町七番丁に編入した。逆に高津町一番丁の一部が西高津村に編入された。同12年2月10日に南区高津町一~十番丁となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年4月1日に高津町一番丁のうち市道九條高津第一号線北側以南が天王寺区に、また高津町五番丁のうち市道堀初橋線北側以南が浪速区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、高津町一~二・四番丁の一部が高津一丁目の一部となった。同58年2月1日の住居表示の実施にともない、残部の高津町一~二・四番丁および高津町三・五~十番丁全域は道頓堀一丁目・高津二~三丁目・日本橋一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は『摂津風土記』に「難波高津は、天(あまの)稚(ちいさ)彦(ひこ)の天降りの時、天稚彦に属して降りし神の天(あまの)探(さぐ)女(め)が磐船に乗り是に至る。天磐船の泊りしを以て、高津を故号(なづ)く」とあるに由来しもと郡戸・古宇津・爪生津と書かれていたものが、寛永2年(1625)以後、高津の文字に定着し、村名となったことに基づく。

史跡その他

高津宮の所在する町で、境内に「高台之頌碑」「観善歌」「鉄格子波丸歌墳」が、参道に門人画家たちによる「北野恒富先生筆塚」および「梅之井」「献梅碑」などの碑石が建立されている。本殿西に江戸時代から有名な高津舞台があり、市中および大阪湾を望めた。
七番丁の高津橋橋詰に植村文楽軒が文化2年(1805)ごろ開いた浄瑠璃の稽古場に因み、現在千日前線北側に国立文楽劇場が開かれ、開設を記念した谷崎潤一郎文学碑と近松門左衛門文学碑が劇場の西寄りと東寄りの道路敷内に設置された。

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