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中央区(旧南区)の町名(た行)

2020年1月24日

ページ番号:484181

大宝寺町中之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の白銀町・山崎町・南紺屋町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって大宝寺町中之町となった。同12年2月10日に南区大宝寺町中之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、大宝寺町中之町は新しい心斎橋筋一丁目・東心斎橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、生玉寺町に移転した大宝寺が、この町筋の西部に所在していたことに由来する。
付称の「中之町」はこの町筋の中央部分に位置することによる。

大宝寺町西之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の大宝寺町の全域と錺屋町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって大宝寺町西之町となった。同12年2月10日に南区大宝寺町西之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、大宝寺町西之町は新しい心斎橋筋一丁目・西心斎橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

⇒「大宝寺町中之町
付称の「西之町」はこの町筋の西部に位置することによる。

大宝寺町東之町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の九之助町一~二丁目全域と関町・小西町の各一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって大宝寺町東之町となった。同12年2月10日に南区大宝寺町東之町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、大宝寺町東之町は島之内一丁目の一部となった。

町名の由来

⇒「大宝寺町中之町
付称の「東之町」はこの町筋の東部に位置することによる。

竹屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の卜半町・南竹屋町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって竹屋町となった。同12年2月10日に南区竹屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、竹屋町は島之内一~二丁目の各一部となった。

史跡その他

明治42年6月14日から、東区との合区により中央区になった平成元年2月13日まで、改築の期間を除く約80年間当町に南区役所がおかれた。

田島町

町域の変遷

当町は明治初頭大坂三郷南組の宮崎町の一部と田島町の全域であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に各町をもって田島町となった。同12年2月10日に南区田島町となり、同22年4月1日市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和45年1月1日に田島町の一部が谷町七丁目に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、田島町は新しい谷町七丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、江戸時代の初め堀之外島町といい、島町が主要部となる町名であったが、当時の北組に属した島町との区別のため、市街地ではない島町に田舎の田を付し、田島町としたと考えられるが正確な由来は不明である。

畳屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の南畳屋町・道頓堀布袋町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日各町をもって畳屋町となった。同12年2月10日に南区畳屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、畳屋町は新しい心斎橋筋一~二丁目・新しい宗右衛門町・東心斎橋一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、豊臣期に大坂城の畳納入の御用職をつとめる山善・山八・大丈その他が当町に住んでいたとされ、そこからこの地名が生まれたという。

谷町六~九丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡西高津村の一部と、大坂三郷南組の玉木町・柏原町の全域および萬年町・立半町の各一部であったが、明治2年6月2日に玉木町・萬年町は東大組、柏原町・立半町は南大組、明治3年9月に玉木町・萬年町は南大組に属した。同5年3月17日に玉木町・柏原町の全域および萬年町・立半町の各一部をもって谷町筋六~七丁目となった。同12年2月10日に南区谷町筋六~七丁目となった。同22年4月1日の町村制の施行にともない、西成郡西高津村は東成郡西高津村となった。また谷町筋六~七丁目は市制施行にともない大坂市南区に編入された。同30年4月1日に西高津村は大阪市に編入され、東区西高津となり、同33年4月1日に西高津の字谷町八丁目・字谷町筋八丁目寺町・字谷町八丁目上寺町・字谷町筋八丁目上寺町・字梅ケ辻をもって谷町八~九丁目となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない、谷町八~九丁目は天王寺区に編入されたが、昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない、谷町八丁目の全域と谷町九丁目のうち市道九条高津第1号線北側以北が南区に編入された。同19年1月1日に谷町筋六~七丁目が谷町六~七丁目となった。同45年1月1日に田島町・南桃谷町の各一部が谷町七丁目に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、谷町六~九丁目は新しい谷町六~九丁目・上汐一~二丁目・安堂寺町一~二丁目・中寺二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、上町台地稜線西側に南北に走る谷筋があり、当町がその谷筋に当たることに由来すると考えられる。

史跡その他

六~七丁目は野漠の名でよばれていた一帯で、大坂城三の丸の南面には谷町口門があって、冬の陣のとき藤堂高虎が攻めたといわれている。
八丁目は元和以来の寺社地で、旧法妙寺の近松門左衛門の墓、妙光寺の老樹姉川桜(江戸時代の名女形姉川新四郎の墓が桜の老樹とセットされ、そう呼ばれた)、久本寺の天王寺屋五兵衛家および住友家(泉屋)の墓所などがある。

玉屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の玉屋町・南塗師屋町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に玉屋町と南塗師屋町をもって玉屋町となった。同12年2月10日に南区玉屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、玉屋町は東心斎橋一~二丁目・新しい宗右衛門町の各一部となった。

町名の由来

町名は、玉屋次左衛門が居住したことに由来する。彼は希有の倹約家で家造りから雑用の調度に至るまで石を用いたと伝えられ、石の次左衛門と綽名された奇人であった。

史跡その他

役者の住居が多く、初代中村鴈治郎や戦災死した中村魁車が住んでいた。

問屋町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の南問屋町の全域と小西町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に各町をもって問屋町となった。同12年2月10日に南区問屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施の実施にともない、問屋町は島之内一~二丁目の各一部となった。

史跡その他

瓦屋橋西詰陸側に、紀海音『お染久松袂の白しぼり』、近松半二『お染久松新版歌祭文』のモデルになった絞油屋があり、お染蔵というのが戦災時まで所在していたと伝える。

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