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中央区(旧南区)の町名(な行)

2020年1月24日

ページ番号:484182

中寺町

町域の変遷

当町は明治初頭、西成郡西高津村の一部であったが、明治22年4月1日の町村制施行にともない東成郡に属した。同30年4月1日に大阪市に編入され、東区西高津の一部となった。同33年4月1日に西高津の一部が西高津中寺町となった。大正14年4月1日の行政区画の変更にともない天王寺区に編入されたが、昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない南区に編入された。同19年1月1日に西高津中寺町は中寺町となった。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、中寺町は新しい谷町七・九丁目・中寺一~二丁目・高津一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、大阪の寺町地域の中において西南部の西寺町(天王寺区の下寺町)と東北部の谷町八丁目寺町との中間に位置することに由来する。

史跡その他

著名な人物の墓をもつ寺院が多く、大阪市顕彰史跡の碑石も二基存する。
一つは本経寺門前の豊竹若太夫墓所の碑石。碑文に「若太夫は後に越前少掾を名のり、道頓堀に豊竹座をおこして、義太夫の竹本座とともに人形浄瑠璃芝居の全盛期をつくった。明和元年(1764)没」とある。他の一つは、妙寿寺の田中金峰墓所の碑石で、碑文に「文久二年(1862)わずか18才で若死したが、『大阪繁昌詩』などすぐれた著作をのこした学者であった」とある。儒医の田中華城を父にもつ天才的人物であった。ほかに雲雷寺に初代大阪市長田村太兵衛の墓があり、顕孝庵は豪商鴻池家の菩提寺である。

長堀橋筋一~二丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の油町一~三丁目および南組の南米屋町の全域・中津町・長堀茂左衛門町・鰻谷二丁目・道頓堀宗右衛門町の各一部であったが、明治2年6月2日にいずれも南大組に属した。同5年3月17日に油町一~三丁目・南米屋町の全域と、中津町・長堀茂左衛門町・鰻谷二丁目・道頓堀宗右衛門町の各一部をもって長堀橋筋一~二丁目となった。同12年2月10日に南区長堀橋筋一~二丁目となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、長堀橋筋一~二丁目の各一部は島之内一~二丁目・南船場一~二丁目の各一部となった。平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、残部の長堀橋筋一~二丁目は新しい宗右衛門町・東心斎橋一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、長堀に架かる長堀橋から真直ぐに南に連なる町筋であることに由来する。

史跡その他

大阪市顕彰史跡として心学明誠舎跡の碑が堺筋東側に所在し、碑文に「大阪の心学学舎は江戸時代数舎が設けられ大いに庶民教化に尽したが、明誠舎のみは近時までこの地に存続した」とある。心学は享保14年(1729)に石田梅岩が京都で唱えはしめたもので、商人の間に広まった。明誠舎は梅岩の孫弟子にあたる井上宗甫(三木屋太兵衛)によって天明5年(1785)に創立された。
日本橋北詰の堺筋東側広場には道頓堀の開削に尽したという贈従五位安井道頓・安井道卜紀功碑の巨碑があり、同西側広場には小野十三郎の詩を刻んだたたずめばの碑が所在する。

難波新地一~六番町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷天満組の難波新地二~三丁目および北組の元堺町・元京橋町・元相生町の全域と西成郡難波村の一部であった。明治2年6月2日に難波新地二~三丁目・元堺町・元京橋町・元相生町は南大組に編入され、同5年3月17日に難波新地一~四番町となった。翌6年11月17日に難波村のうち字難波新地溝の側より南の東西角カ場筋までの区域を難波新地五番町に、角カ場筋より南一円の区域および字新川を難波新地六番町となり、南大組に編入された。また芝居裏から溝の側までの難波新川東側の難波新地祇園町および字新川が難波新地一~四番町に編入された。明治12年2月10日に南区難波新地一~六番町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年3月31日に難波新地六番町の一部が浪速区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、難波新地一~六番町は難波一~二・四~五丁目の全域と難波三丁目・千日前一~二丁目・難波千日前・道頓堀一~二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、難波村のうちで市域に編入された新開地であることに由来する。

史跡その他

享保9年(1724)の大坂大火後、京橋口と相生町の二つの町が火除地として収公された時、従来の職業を許された上、代替地として与えられた新地で、明和元年(1764)に鈴木町の金田屋正助か、地代12,000両を納めてさらに町域を拡げた町である。
戎橋筋の衣類雑貨を専門とした商店街が台頭した。なんば地下街はわが国最初の地下商店街として昭和27年に会社組織で発足した。
竹林寺・法善寺の両寺が同じ町域に所在し、千日前線のすぐ北の千日前通に松園山竹林寺の碑、それより少し北、水掛不動へ行く入口に天龍山法善寺の碑石があり、その奥に情人色妬者専門法善寺醍醐の石碑が建っている。この三碑はいわば看板表札であるが、街の成立と千日参りの寺かいわいの雰囲気を現在に語りかけるものとして注目される。
町域を二分する千日前線の地下には虹のまちがあるが、この道路は明治末年と昭和40年代の二度にわたり、都市交通の必要性から拡幅された道路である。

西清水町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の柳町・松原町であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に各町をもって西清水町となった。同12年2月10日に南区西清水町となり、同22年4月1日に市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

平成元年2月13日に南区は東区と合区して、中央区となった。同日付の住居表示の実施にともない、西清水町は新しい心斎橋筋一丁目・西心斎橋一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は「このあたりに麗泉涌出して清水町と名づく」と『摂陽奇観』にもあることに由来し、その清水町の西部に町筋が位置することによる。

史跡その他

大阪商科大学(市立大学)に巨額の寄付をなした和泉吉(田中吉太郎)の住居があった。数々のエピソードをもつ竹の皮の卸小売商人である。

西賑町

町域の変遷

当町は明治元年7月に大阪市街に編入された瓦土取場であったが、同年11月26日に新瓦屋町となり南組、明治2年6月2日に東大組に属した。同3年9月に南大組新瓦屋町となり、同6年11月17日に二分した西寄りの町が西新瓦屋町となった。同45年2月8日に西賑町となった。同12年2月10日に南区西新瓦屋町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、西賑町は新しい谷町六丁目・安堂寺町二丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、野(の)漠(ばく)とよばれた地域を、商売繁盛の地になるように祈って付けたことに由来する。冠称の「西」はその地域の西部に位置することによる。

西櫓町

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷南組の道頓堀吉左衛門町の全域および道頓堀立慶町の一部であったが、明治2年6月2日に南大組に属した。同5年3月17日に各町をもって道頓堀櫓町の一部となった。同6年11月17日に相合橋筋を境界とした西側の道頓堀櫓町が西櫓町となった。同12年2月10日に南区西櫓町となり、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、西櫓町は道頓堀一丁目の一部となった。

町名の由来

町名は、櫓芝居が興行される道頓堀を二分して西部を占めることに由来する。

史跡その他

『摂陽奇観』によれば、承応元年(1652)に中之芝居塩屋九郎右衛門・角之芝居大坂太左衛門・大西芝居松本名左衛門の三名代が許可され、以後芝居町として繁栄する。大阪市顕彰史跡として竹本座跡碑が浪花座前にあり、碑文に「竹本座は、初代竹本義太夫が貞享元年(1684)この地に創設したもので、偉大な劇作家近松門左衛門と提携協力して人形浄瑠璃全盛期の基をひらいた」と刻まれている。明和8年(1771)まで87年間続き、その後は大西の芝居から筑後の芝居・戎座・浪花座と受けつがれ現在に至ったが、今は映画館である。
西櫓町には竹本座・中の芝居・角の芝居・角丸の芝居が櫓を競った。このうち中の芝居(中座)前には曽我廼家喜劇発祥之地碑、笑輪加財碑が建ち、東隣には〈頬かむりのなかに日本一の顔〉と初代鴈治郎の「心中天網島」を讃えた岸本水府句碑も建つ。法善寺横丁には西田当百の「上かん屋ヘイヘイヘイとさからわず」の句碑、次に平田春一の「かくはかり鯛を食はば鯛の奴/うらみつらむか或は否か」の歌碑、そして有名な織田作之助の「行き暮れてここが思案の善哉かな」の文学碑、さらに「懐しおます横丁でおもろい噺五拾銭也此処は花月の落語席のあと」という花月席跡碑が並んでいて、情緒をかきたてている。

日本橋筋一~三丁目

町域の変遷

当町は明治初頭、大坂三郷北組の日本橋筋一~三丁目の全域と長町六丁目および西成郡西高津村・東成郡天王寺村の各一部であったが、明治2年6月2日に南大組に編入された。同5年3月17日に日本橋一~五丁目・長町六丁目を合わせて日本橋筋一~三丁目となった。同6年11月17日に西高津村のうち日本橋筋字関屋町を日本橋筋二丁目に、天王寺村のうち日本橋筋東・西裏手を日本橋筋二~三丁目に編入した。同12年2月10日に南区日本橋筋一~三丁目、同22年4月1日の市制施行にともない大阪市南区に編入された。昭和18年4月1日の行政区画の変更にともない日本橋筋二~三丁目のうち、市道南北線および堀初橋線北側以南が浪速区に編入された。

住居表示の実施

昭和57年2月1日の住居表示の実施にともない、日本橋筋一丁目の一部は道頓堀一丁目の一部となった。同58年2月1日の住居表示の実施にともない、残部の日本橋筋一~三丁目は、日本橋一~二丁目・道頓堀一丁目の各一部となった。

町名の由来

町名は、公儀橋日本橋の架かる町筋を南へ伸びる町筋であることに由来する。

史跡その他

堺筋東側の南端には道標が建てられ、大阪の主要道路堺筋としての風格を示す。日本橋は道頓堀開削当初からの古い橋で、架け替えや修理を幕府が負担する公儀橋であった。この町筋は昔、古着・古道具店が軒を接して並んだが、大正期以後新興の家具屋などの問屋街に変化した。

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