平野環濠跡
2024年5月30日
ページ番号:210327
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。
環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
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