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歴史・位置・地勢

2009年10月2日

ページ番号:950

大阪市における都島区の位置のイラスト


 都島区は東経135度31分、北緯34度41分(区役所所在地)に位置し、大阪市の北東部に位置しており、概ね平坦で、平均海抜5メートル、最高地点は淀川堤の13メートルです。面積は6.08平方キロメートルで大阪市全体の225.33平方キロメートルの2.70%を占めており、西側を大川に沿って南北に長く、北側を淀川に、南側は寝屋川にそれぞれ接したまちです。

歴史と沿革

 都島区は、古代にはアシの茂る砂洲にすぎなかった土地柄ですが、近世になって、区の南端部は山城・河内・大和の国々と難波の地を結ぶ交通の要衝として、中北部は近郊農村として発達しました。
 また、区の北部を流れる淀川は、「淀二十石船」「三十石船」に代表されるように、京都と大阪を結ぶ水運の大動脈として利用されてきました。
 古代から数え切れないほどの洪水を繰り返してきた淀川は、明治18年の大洪水を契機として改修への取り組みが始まり、明治42年に新淀川が開削され、その翌年には毛馬の洗堰が築造されて大阪の近代化に大きな役割を果たしました。

 都島区は、明治22(1889)年「市制町村制」の施行による大阪市誕生ののち、市域拡張や行政区の再編成を経て、昭和18(1943)年4月1日、22行政区制実施により現在の区域として誕生しました。

 発足後まもなく、空襲によって区域の8割を焼失するという不幸に見舞われましたが、その後の目覚ましい復興により、生まれ変わりました。

都島区の戦前から戦後については、こちら

 淀川の豊富な水利用に着目した大小の工場が区の中・北部の淀川沿岸に進出、急速な工業地帯化が進みましたが、昭和40年代後半から、社会問題化した公害対策等のため、こうした工場は相次いで地方へ転出し、その広大な跡地は大規模集合住宅群に姿を変えています。
 また、中野町の市電都島車庫跡地及び旧国鉄淀川貨物線跡地には、総合医療センターや保健福祉センター分館、スポーツセンター、区民広場(ぽっぽてらす)などの公共施設が整備され、都心に近く居住環境に優れたまちなみが誕生しています。
 かつて京街道の起点に近く、交通の要衝として賑わった京橋地域は今もなお、JR環状線・学研都市線・東西線、京阪電鉄、Osaka Metro長堀鶴見緑地線が相互に連絡し、大阪東部の玄関口として、また商業のまちとして知られています。

都島区制80周年

令和5年4月、都島区が誕生して80周年を迎えました。

区の魅力を満載した記念動画を作成しましたので、ぜひご覧ください。

記念動画はこちらから別ウィンドウで開く

町名の由来

町名の由来

片町(かたまち)

 区内南西端部の寝屋川北岸の東西に細長い町域で、川沿いの道路の片側(北側)に家並が連なっていたことから、古くから片町と呼ばれていました。

網島町(あみじまちょう)

 区内南西端部で、藤田美術館・もと大阪市公館を中心とする一帯です。
 江戸時代は大坂三郷の北組に属し、近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」で有名です。町名は「此地は淀川のつつみにして漁家つらなり鮮魚を多く市に出す。さる程に軒毎に終日網を干ゆへ」と「摂津名所図会大成」にしるされていることなど、古くからの漁村で、網が干されていたことからこの地名がありました。

東野田町(ひがしのだまち)

 区内南部の国道一号に沿う一帯の町名。もと、東成郡野田村の一部で、明治30年の第一次市域拡張で市域に編入された際、北区野田玉川町(現福島区)に対する北区東成野田となり、同33年東野田町となりました。

中野町(なかのちょう)

 大川と都市計画道路桜島守口線に囲まれた区域で、淀川堤防の桜の名所は古来有名。町名は、旧村名中野村に由来します。

善源寺町(ぜんげんじちょう)

 大川と都市計画道路桜島守口線にはさまれた地域で、都島工業高校があります。もと東成郡善源寺村の一部です。中世にはこの地域に善源寺荘という荘園があったことが知られているほか、明治40年まで、当地に黄檗宗善源寺が存在していたことによるという説があります。

都島(みやこじま)

 区内中央部から南東部一帯にひろがる町名で、北通・本通・中通・南通に分かれています。明治22年の市制町村制施行の際、旧善源寺・中野・沢上江・毛馬・友渕の五村を合わせて都島村としました。都島の命名は、仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊碕宮が当地の近くにあったことによりますが、一説にはこの付近を宮向島と称していたといわれています。

友渕町(ともぶちちょう)

 大川・城北運河と都市計画道路桜島守口線に囲まれた地域で、もとの東成郡友渕村の一部。町名は、「住吉大神代記」の長柄船瀬の記述に、長柄船瀬の「西限鞆渕」とあり、この鞆渕が当地付近に該当するとの伝承に由来して鞆に友の字を当てたことによります。

高倉町(たかくらちょう)

 都市計画道路桜島守口線の北部東側の町名。町名は、治承4年、譲位後の高倉天皇が厳島行幸の際に立ち寄った川尻の寺江、ならびに福原行幸の時に立ち寄った寺江頓宮が当地に当たることの伝承から命名されました。

御幸町(みゆきちょう)

 高倉町の東側に隣接する町名。町名は高倉町と同じく、高倉天皇の御幸地であったことに由来します。

内代町(うちんだいちょう)

 城東貨物線の西側に沿う町名で、旧東成郡内代村の一部。町名は旧村名に由来するが、内代の名は寛永20年から徳川氏代官の支配地になったことによると考えられます。

大東町(だいとうちょう)

 区内北東部で、城東貨物線沿いの町名。町名の由来は、当町の発足が大東亜戦争(太平洋戦争の当時の呼称)の最中であり、また大阪市東部の振興町域であったことに由来します。

毛馬町(けまちょう)

 区内北西部で、淀川と大川に囲まれた町域である。旧東成郡毛馬村の一部で、天正年間(1573年~1591年)織田氏がこの地に毛馬城を築き布陣したこと、古くは雑草の茂る毛志島と呼ばれ、それがなまって毛馬となったことに由来するとの両説があります。

写真でみる 都島区の今と昔

地下鉄都島駅周辺

地下鉄都島駅周辺の写真(昭和40年頃)
地下鉄都島駅周辺の写真

 昭和40(1965)年頃の地下鉄都島駅周辺です。都島工業高等学校付近から南方面を写しています。写真奥右側には大阪城、その左側には消防署の火の見やぐらが見えます。当時は大阪市電が走っていましたが、地下鉄網の拡充、自動車の増加などを受けて昭和44(1969)年3月末に約65年で幕をとじました。

旧都島消防署付近

旧都島消防署付近の写真
旧都島消防署付近写真

 昭和34(1959)年7月、旭署から分離独立し、現在の都島消防署が開署されました。写真は平成6(1994)年に建て替えられる前の「旧都島消防署」です。都島中通から西方面を写しています。現在の都島消防署の庁舎は、建て替える際に南側に移動したため、今は通りから消防署の建物はほとんど見えません。

都島橋周辺

昭和40年頃の都島橋周辺の写真
都島橋周辺の写真

 写真は昭和40(1965)年前後の都島橋周辺です。都島区側から西方面(北区側)を写しています。当時は橋の中央を大阪市電が走っていました。市電廃止後、レールを撤去し、昭和54(1979)年に道路幅が広げられ、現在の都島橋となりました。

毛馬洗堰(あらいぜき)付近

毛馬洗堰付近の写真(昭和30年ごろ)
毛馬洗堰付近の写真

 昭和30(1955)年頃の毛馬洗堰付近の写真です。この洗堰は、淀川から大川へ流す水量の調整などを目的として明治43(1910)年に完成。毛馬第1閘門とともに淀川の治水安全に大きく貢献しましたが、昭和49(1974)年の新毛馬水門の完成に伴い、65年の歴史に終止符を打ちました。

市電都島車庫

市電都島車庫の写真
総合医療センターの写真

 都島車庫は、大正11(1922)年に開設され、天王寺車庫に次ぐ基幹車庫でした。写真は都島本通側から南方面を写しています。後ろには旧都島消防署の火の見やぐらが見えます。昭和44(1969)年、市電の廃止とともに閉鎖され、その跡地は現在、総合医療センターとなっています。

毛馬第二閘門(こうもん)付近

毛馬第二閘門(昭和30年頃)
毛馬第二閘門付近

 昭和30(1955)年頃の毛馬第二閘門です。閘門の制水扉が開いていて船が通行しています。毛馬第一閘門完成後の大川の浚渫(しゅんせつ)工事により、大川の水位が大幅に下がったため、下流に二つ目の閘門として、大正7(1918)年に設置されました。

旧京阪京橋駅付近

昭和40年頃の京橋駅前の写真
京橋駅前の写真

 昭和40(1965)年頃の京橋駅前です。当時の京橋駅はJR(当時は国鉄)環状線の東側にあり、JRの高架下を京阪電車が走っていました。踏切付近は、朝夕ともなると通勤客で大混雑。この後、京阪電車の高架複々線化工事に伴い、昭和44(1969)年、京阪京橋駅は環状線の西側(現在の京橋駅)に移転しました。

赤川仮橋の写真

昭和56年頃の赤川仮橋
平成25年10月31日撮影 赤川仮橋

赤川仮橋(平成25年10月31日撮影)

 昭和56(1981)年頃の赤川仮橋です。正式名を「城東貨物線淀川橋梁」といい、昭和4(1929)年に鉄道が走る鉄橋上に完成した人道橋です。対岸の東淀川区と旭区、都島区を結ぶ仮橋は、通勤、通学、部活動のランニングコースなどとして周辺の人々に愛されてきましたが、平成25(2013)年10月31日、84年の歴史に幕を閉じ、平成31(2019)年に「おおさか東線」として生まれ変わりました。

大阪帝国大学工学部

大阪帝国大学工学部の写真
大阪府立東高等学校の写真

 昭和8(1933)年頃、大阪大学工学部の前身、大阪帝国大学工学部の写真です。昭和45(1970)年、吹田市山田丘に移転するまで、多くの学生がこの校舎で学びました。現在、当時の敷地の半分が大阪府立東高等学校となっています。

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大阪市都島区役所 総務課(政策企画)

〒534-8501 大阪市都島区中野町2丁目16番20号(都島区役所1階)

電話:06‐6882‐9683

ファックス:06‐6882‐9787

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