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なにわの伝統野菜「毛馬キュウリ」ものがたり

2009年10月8日

ページ番号:17064

1.はじめに

河内湖時代(約1800~1600年前、弥生時代後期~古墳時代前期)の古地理図

 大阪の難波津は、古代におけるアジアへの窓口であり遣隋使、遣唐使などが行き交う、重要な港であった。5~6世紀頃の河内平野はまだ淡水と海水が入り混じる汽水湖であったが、その後、淀川や旧大和川の支流が運ぶ土砂の堆積と海退により陸地化し、野菜の生産に適した砂質土壌条件を形成していった。
また、商業や海運が盛んであったことから、大阪には全国各地より美味しい食材が集まり、仕出し屋の発達など、食い道楽の町として栄え、独特の食文化が発達していった。
 江戸時代の大坂は、天保7年(1836)の『新改正摂津国名所旧跡細見大絵図』や文久3年(1863)の『大阪産物名物大略』(※河内屋太助・伊丹屋善兵衛.1864.大阪産物名物大略)に、‘宮の前大根(みやのまえだいこん)’、‘守口細大根(もりぐちほそだいこん)’、‘天王寺大根(てんのうじだいこん)’、‘椋橋大根(くらはしだいこん)’、‘天満白大根(てんましろだいこん)’、‘田邊大根(たなべだいこん)’、‘天王寺蕪(てんのうじかぶ)’、‘木津干瓢(きづかんぴょう)’、‘難波村胡蘿蔔(なんばむらこらふ)’、‘木津人参(きづにんじん)’、‘木津冬瓜(きづとうがん)’、‘倉橋大根(くらはしだいこん)’、‘玉造黒門白瓜(たまつくりくろもんしろうり)’、‘毛馬胡瓜(けまきゅうり)’、‘市岡西瓜(いちおかすいか)’、‘九条茄子(くじょうなす)’、‘本庄茄子(ほんじょうなす)’、‘小松茄子(こまつなす)’、‘鳥養茄子(とりがいなす)’、‘吹田烏芋(すいたくわい)’などの品種名が、列挙されるほど野菜の生産が盛んな町であった。
 明治、大正と大きな食生活の変化はなかったが、昭和10年代に入り、生産面では作りにくい、病害虫に弱い、また、食生活の洋風化と消費の周年化から、これら伝統野菜は在来種から1代雑種(異なった品種間の交配でできたこども)に変わっていった。たとえば、漬け物に適していた黒疣(くろいぼ)系キュウリは生食に適している白疣系に、日本カボチャから西洋カボチャ、白首ダイコンから青首ダイコン、日本ニンジンから西洋ニンジンへと変化し、伝統野菜の姿を畑で見ることが少なくなっていった。

2.キュウリの渡来

 キュウリの原産地はヒマラヤ山麓にあるとされ、紀元前、中国人が西方にある胡の国から持ち帰った瓜ということで胡瓜(こうり)と命名されたこと、そして隋の時代に胡瓜という言葉が嫌われたことと、果実そのものが熟すると黄色になる特徴から黄瓜とも命名されており、歴史、特性などがその漢名から読みとることができる。
 わが国において、これまで『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年)にはじめてキュウリの名が見えると言われていたが、『平城宮掘調査出土木簡概報』(※なにわ特産物食文化研究会編.2002.なにわ大阪の伝統野菜.96-106.)に「物部廣庭進黄瓜壱拾参顆(もののべひろにわたてまつるきうりいちじゅうさんか)」「多米麻呂進黄瓜壱拾肆顆(ためのまろたてまつるきうりいちじゅうしか)」「従意保御田進上瓜一荷 納員百卅顆 持越仕丁 天平八年八月五日国足(じゅうおほのみたしんじょううりいっか おさめるかずひゃくさんじゅっか もちこすじちょう てんぺい8ねん8がつ5かくにたり)「園地司 佑出雲鎌束進 熟瓜卅顆 生角豆廿把 天平八年七月廿四日付俺智造縄麻呂(そのいけつかさ すけいづものかまつかたてまつる じゅくうりさんじゅっか ささげまめにじゅうわ てんぺい8ねん7がつ24かふすあむちのみやっこなわまろ)」および「政所 牒岡本宅司 毛瓜廿顆 最…天平八年二月七月(まんどころ ちょうおかもとのやけのつかさ けうりにじゅっか さい…てんぺい8ねん2がつ7がつ)」の記載があり、黄瓜、瓜、熟瓜、毛瓜(冬瓜)を区別して表記していることから、黄色になった瓜すなわち、今日でいうキュウリが奈良時代、既に、渡来していたものと考えられる。また、品種面では『百姓伝記』に青、白、黄、短い、1.2尺の長いキュウリや太さが6、7寸のキュウリ、熟すると金黄色になる品種のあることや、『本草図譜』にはシロキュウリとして果実の上半分が緑、下半分が白で黒疣の半白系のキュウリが図示されていることなどから、江戸時代において、華北系と華南系キュウリとの雑種および華南系品種が既に土着していたものと推定(※熊澤三郎.1965.蔬菜園芸各論.18-37.)している。キュウリの食べ方については、室町時代に書かれたとされる『庭訓往来(ていきんおうらい)』(※石川松太郎.1973.庭訓往来.p.264-284.平凡社.)に「キュウリ甘漬」とあり、その他、『百姓伝記』(※岡 光男.1979.日本農書全集.17:266-390.農文協.)には、なますや生食、塩蔵して食したとあるが、果実の苦みが強かったことやキュウリの切り口の胎座部の形が葵の紋に似ていたため、江戸時代には、武士に嫌われたことなどから、ウリやマクワウリに比べ低い地位にあったとされていた。しかし、長く続いていたこのような風潮も、『私家農業談』(※広瀬久雄.1979.日本農書全集.6:125.農文協.)に、「他の瓜に先立ってなり始め、初物として和えものにしたり漬物にするなど、農家の副食物として重宝なものであり、竹や小柴で垣根を作り、これにはわせて栽培する」とあり、1790年頃からキュウリの利用が急速に広がっていった。

3.毛馬キュウリの歴史的背景

今より約千三百年以前の都島(孝徳天皇時代)地図

 文久3年(1863)の『大阪名物大略』に唯一‘毛馬胡瓜’の記載があった。現在の都島区毛馬町の地名がキュウリの前に付けられていることから、本品種はこの地区に起源または発祥したものと推定される。
 1300年前の地図上では、この辺りは淀、大和、河内の諸川が合流する所に点在した砂州にすぎず、そのひとつに「毛志島」(※区誌編纂部会.1953.大阪市都島区10年の歩み:1-173.)があった。その後、陸地化し、平安朝以降に民家が現れはじめ一村を設け、時期は不明であるが「毛馬村」と名付けられたものであろうとされている。河川の氾濫で何度も洪水に見舞われていた当地区は、1626年に治水工事が行われ、新田となり田園として開拓され、毛馬村を含む淀川筋のこれら地域は、河川の運ぶ土砂が堆積した砂質土壌となり、野菜の生産に適した立地条件を形成していった。
 一方、江戸時代に入る前の大坂は、三郷(北組、南組、天満組)を合わせて約40万人の大都市を形成するようになってきたことから、1651年には官許可の青物市場が大阪市の京橋片原町(きょうばしかたはらまち)に開設され、後の天満市場(※大阪市史編纂所.1990.天満青物市場史料.下.大阪市.)となった。そして、大阪南郊の畑場8カ所や、東成郡の天王寺村、住吉郡の遠里小野村、桑津村、西成郡の江口村、海老江村、西郊の市岡などで、1701年頃に至り販売用の野菜(自家用に対して)の生産が盛んとなり、市場に集荷された後、市民に野菜が供給されるようになった。
 長い間、当時の市場は、取扱独占の特権をもっていたが、1860年に天満市場の問屋年行司及び西奉行あてに、東成郡の澤上江村、中野村、善源寺村、友淵村の庄屋が連名で、各村々の農民が作った野菜を市場で立ち売りするための許可願を出した。そして、許可願の中に16品目の野菜があげられ、その一つにキュウリが入っていたことから、上記村々を含む現都島区一帯に、キュウリが栽培されていたことが明らかとなった。

4.キュウリ粕漬の創始

なにわの粕漬の写真

 キュウリそのものが、青物として流通消費されていただけでは、恐らく『名物名産大略』に記載されなかったのではないかと考えられ、この点については、粕漬に関する記録にその答えがあるようである。大坂に於ける漬け物の歴史は豊臣秀吉の大坂冬の陣に遡り、天王寺の六萬体で漬け物業「六萬堂」を営んでいた村上氏は、干蕪(ほしかぶら)の製法を1645年に完成させ、天王寺蕪のことが「天王寺麩(てんのうじふ)」とも称され、全国にその名声が轟きわたることとなった。
 また、17代目の村上嘉平治(※村上雅男.1932.浪華漬の由来.p.1-7.)は天王寺蕪の粕漬の製法を1735年に創始し、さらに、20代重兵衛は1790年に蕪の他に白瓜、茄子、西瓜、胡瓜、細大根の5種を漬け、「浪華漬」の名称で販売し、1795年には四天王寺総坊の漬物御用達を命ぜられるほどとなった。
 一方、時代の経過とキュウリに対する風潮の変化にともない、1790年代に至ってキュウリの需要が高くなり、青果以外にも保存食としての粕漬が完成した。
 そして、当時の品種は半白系品種が主に用いられたと考えられ、‘毛馬キュウリ’が‘玉造黒門白瓜(たまつくりくろもんしろうり)’、‘守口大根’などとならび奈良漬けに珍重されていたことなどから、前述の『大坂産物名物大略』に‘毛馬胡瓜’が記載されたものと考えられる。そして、他地域でつくられるキュウリと区別するため発祥地である毛馬村にちなみ‘毛馬’キュウリと呼称したものと推定(※森下正博.2001.大阪在来‘毛馬’キュウリの来歴と品種特性.大阪農技セ研報:37:27-34.奈良国立文化財研究所.1990.平城宮発掘調査出土木簡概報.22:11.)する。
 また、生産面では堺の篤農家秋田屋惣平(そうべい)(※大阪府農家副業成績品展覧会.1916.p.95-103.大阪府.)は1850年頃に、半切と油紙を用いた保温によるキュウリの発芽促進技術を開発し、できた苗を日当たりの良い場所に植え、風をよけ温を取りながら栽培したところ、霜がまだ降りている初春に収穫できる促成栽培法を初めて行った。
 しかし、これを信ずる者がなく、キリシタンの邪法などとされ、投獄されてしまったが、その息子惣平は父の意志を継承し、専ら促成栽培に従事、研究し近所の農家にその栽培法を授け、ともにキュウリの発展に努めたことにより、堺キュウリの名は秋田屋の名と共に遠くまで宣伝されるに至った。江戸時代の終わりから明治にかけ、このように新しい栽培法も開発され、ますますキュウリの生産と消費が盛んになっていった。

5.キュウリの生産状況と品種の変遷

 明治21年(1888)の農事調査(※大阪府.1888.農事調査、摂津、河内、和泉.)によれば、府下の総収量は約116万貫であり、1ha当たり6000貫の収量と仮定すると、栽培面積は延べ約193haとなる。そして、現在の大阪市(当時の東成郡、住吉郡、西成郡、大阪市)で約36haの栽培があったと推定される。その後も需要が増加し、1917年の統計では府全体で約262haの栽培面積となった。そのうち、東成郡と中河内郡(現東大阪市)で合わせて約89ha、泉北郡で約98haの面積となり、両産地で全体の約71%を占めるまでになった。さらに、生産地域別に栽培品種をみると、前者は‘毛馬’、後者は‘堺節成(さかいふしなり)’が主体で、一部夏キュウリとして、日露戦争の際、堺市の播磨氏が導入栽培した華北系品種の‘北京’と華南系の‘堺白節成’と華北系の‘清国三尺(しんこくさんじゃく)’の雑種と推定されている‘台湾’がわずかに導入されているにすぎず、当時の大阪では、‘毛馬’に対する需要が高かった。
 また、『大阪府農会報』の1941年の写真記録によれば伊勢神宮に奉納するため、神撰用に‘毛馬’系のキュウリが布施市友井実行組合管内で栽培されたとあり、大阪において、当時キュウリが重要な品目であったことがうかがわれる。
 また、『大阪府農会報』の1941年の写真記録によれば伊勢神宮に奉納するため、神撰用に‘毛馬’系のキュウリが布施市友井実行組合管内で栽培されたとあり、大阪において、当時キュウリが重要な品目であったことがうかがわれる。
 品種改良の面では、大正8年に創立した大阪府立農事試験場の『業務行程』(※大阪府立農事試験場.1926.大正14年度業務行程.p.16.大農試.)によれば、府下で最も重要にして、かつ一般的栽培品種の‘毛馬’および‘白節成’の2品種について、1923年より育種が始まった。‘毛馬’には「十三付近から出される‘毛馬がいわゆる本毛馬で、純粋に近い‘毛馬’の系統を伝え、河内の‘毛馬’に比較し、形はやや小型であるが、甚だ優美で肉質が緊り(しまり)、上物は奈良漬けにも使用され1本3銭以上で買われ、…」との記述があり、昭和の初めには、特性の違った2系統の‘毛馬’が大阪にあったことが明かとなった(※江口庸雄.1933.キュウリの市場調査と経済調査に就て、農及園:351-371.)。
 その後、地方農林技師として昭和5年に試験場へ赴任した熊沢三郎氏は、高井田村(現東大阪市高井田)の在来系統から自殖による個体選抜で、果長が45cmに及ぶ優良系統を選抜し、1932年に‘大仙毛馬1号’(※伊藤庄次郎.1952.蔬菜品種解説.p.31-34.朝倉.)と命名した。
 当時は、半白系のキュウリに栽培は限られていたが、昭和10年代に入ると、原種‘毛馬’そのものの栽培はほとんどなくなったが、品質が良いことからこれを交配親とした一代雑種の育成(※熊澤三郎.1933.キュウリ栽培の経済的研究.農及園:8:371-384.)が昭和5、6年からわが国で初めて行われ、昭和7年に‘二号毛馬’(‘大仙節成二号’ב大仙毛馬一号’)や昭和24年に‘四号毛馬’(‘大仙節成四号’ב大仙毛馬一号’)などが育成され、‘大仙毛馬’にとって代わっていった。昭和28年(1953)の統計では、全作付面積572haのうち泉北郡東陶器村、西陶器村、堺市百舌鳥、大阪市山之内町、布施市を中心とする周辺の120haで‘毛馬’を片親にした一代雑種が、それ以外の地域では半白節成系または節成系品種、あるいはこれら2品種間の雑種品種が栽培されるようになり、固定種‘毛馬’の栽培は、一部の自家用を除き、全くなくなってしまった。その後、さらに食生活の洋風化と消費の周年化が進み、昭和40年代に入り、緑鮮やかで皮の薄い白疣系の品種に変化していった。

6.復活した毛馬キュウリの特性とその取り組み

毛馬キュウリの写真

 ‘毛馬キュウリ’の歯切れ、果色、香り特性など、果実の品質が優れていることに着眼し、大阪府立食とみどりの総合技術センターの前身である旧農事試験場が、農林水産省の試験研究機関に昭和31年に分譲していた同品種の種子を、平成10年に里帰りさせ65年ぶりに試作し特性を調査した。本系統は当時の『蔬菜試験成績書(そさいしけんせいせきしょ)』および『胡瓜播種台帳(きゅうりはだねだいちょう)』によれば、試験場の委託採取地であった泉北郡上神谷(現堺市上神谷地区)の農家から1948年に導入した系統の後代であることが明らかとなった。
 特性を調査したところ、果実は約30cm、太さ約3cmと細長く、果梗部1/3は緑、残り2/3は淡緑白色の黒疣キュウリで、果実の肉質は脆軟(ぜいなん)で、一種独特の風味があった。肩部には古い品種の苦味はあるが、これはククルビタシンの一種で薬効があるとされている。雌花は主に側枝の第1、2節に着生し、株当たりの平均収量は約17本と、現在一般に栽培されている白疣系品種に比較すると少ない。

7.今後の課題

伝統野菜の写真

 地域、季節、食べ方が限定される「なにわの伝統野菜」は周年にわたり安定した生産と供給に対応する野菜作りとは異なり、都市農業の特徴である小規模農家の振興、活性化に有効な野菜ではないかと考える。それは伝統野菜品種の持つ特性、古書にある「美味しい」というキーワードに尽きるものと考えられ、大阪の名前の付いた伝統野菜の「素材の美味しさ」を味わってもらいたいとの願いから、個性の強いこれら伝統野菜の復活に取り組んでいる。
 しかし、現在は食の洋風化、料理に要する時間が十分持てないなど様々な制約はあるが、簡易な調理法などを研究している料理研究家、伝統野菜の導入を推進する流通関係者、加工食品の開発者、生産農家らによって、今なにわの伝統野菜の復活に対する動きが涌き上がってきたところである。地域の人々が、地元にもこの様に美味しい伝統野菜があったのかと知ること、食べてみたい、栽培したいという気持ちの高まりが、自分が住んでいる地域に対する愛着を生み、地域コミュニティの輪が広がっていく。
伝統野菜への郷愁だけでは今後の展開は難しいことから、「こんなに美味しい野菜なのか」という出口をアピールし、それを達成するために生産、流通、販売、消費、料理、食べる、全ての分野の人たちが手をにぎり「なにわの伝統野菜」を大阪特産として復活させなければならないと考える。
 それには、青果、加工、菓子、現代風のイメージクッキング法のレシピ化など出口の明確化と、PRをさらに押し進め、地域のパワーによって消費の拡大と振興を図るなどの方法が考えられる。

 これまでに毛馬キュウリを使った料理ができている。そして、なにわの伝統野菜のエキスをいれた「伝統飴野菜」が製造販売され始め、大阪みやげとして人気が出て、注目されてきている。このように各方面で、それぞれの立場で、なにわの伝統野菜をキーワードに様々な動きが出始めており、このような気運がますます高まり、農家の生産活動に連動し、活発になり、都市域と農村地域の間に調和が生まれるものと確信する。そして、今、この「なにわの伝統野菜」への取り組みが出来るのは、小回りのきく小規模農家であり、思いのある点が少しずつ集まり線となり、面となり広がっていくことが、農村地域と都市域の顔の見えるつながりを生み、大阪の「いやさか」に繋がることを願うものである。先人が残してくれた伝統野菜が、これらの一助となれば、これ以上のことはない。
 今後、‘毛馬’キュウリの復活・再興に向けての取り組みに対して、品質・収量アップや省力化、環境保全面も視野にいれた栽培技術の開発と、青果としての市場出荷あるいは漬け物加工を視野に入れた‘毛馬’キュウリの特産化に向けて技術支援を図っていきたいと考えている。そして、種子の保存については、‘毛馬’キュウリへのあつい思いのある人々によって、後世に大切に受け継がれて行くことを願う。

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