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蕪村略年譜

2016年10月11日

ページ番号:83265

蕪村略年譜
西暦年号年齢事項落款
1716享保元1摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬町)に生まれる。[吉宗が八代将軍に。尾形光琳没] 
172055[大長寺で小春・治平衛の心中事件が起こる(近松門左衛門の傑作「心中天の網島」のモデル)]
172277この頃から絵を学ぶ。
172388[池大雅生まれる]
17281313母が没する?
17301515元服す。元服名は信章。
17331818[円山応挙生まれる]
17352020この頃までに江戸に下る。俳諧、書、漢詩、謡曲を学ぶ。[この頃江戸で仮名詩流行]
1737元文222江戸日本橋石町の夜半亭巴人(宋阿)に内弟子として入門し、俳諧を学ぶ。
1738323「夜半亭歳旦帖」に、宰鳥号で発句一句が入集する。
1739424其角・蘭雪三十三回忌集「桜桃」に、宰鳥号で発句一句が入集する。
1742寛保227夜半亭宋阿没。師を失い江戸を去り、同門の砂岡雁宕を頼って下総結城へ。結城・下館時代(1742~50)
砂岡家の菩提寺弘経寺に草庵を結び、宝暦元年まで関東・東北を暦行。「子漢」「四明」「浪華四明」
1744延享元29宇都宮で「歳旦帖」を刊行し、初めて蕪村と号する。「浪華長堤四明」
1745230結城の北寿(早見晋我)没。追悼詩「北寿老仙をいたむ」を霊前に捧げる。 
1751宝暦元36木曽路を経て京に上り、以後京都に定住。 
1754439丹後の宮津に行き、見性寺竹溪のもとに寄寓する。丹後時代(1754~7)
「四明」
「四明朝滄」「朝滄」「孟溟」
1757742天橋立図自画賛を残し、京に帰る。「魚君」
1758843夜半亭宋阿十七回忌追善集「戴恩謝」が出版される。「趙居」「平安趙居」「馬塘趙居」
「河南趙居」「淀南趙居」
17601045還俗して与謝氏を称する。居を三菓軒と号する。この頃とも女と結婚する。「謝長庚」「東成謝長庚」
17611146娘くの誕生か。「長庚」「春星」
17631348池田の田福宅へ往来する。
1766明和351初めて三菓社中の句会を開く。秋、妻子を残して讃岐に赴く。讃岐時代(1766~8)
1767452一旦京に帰り、再び讃岐へ。「長庚」「謝長庚」「春星」
1768553夏、京へ帰る。「平安人物誌」画家の部に登録される(住所:四条烏丸東入ル)。「謝春星」「三菓居士」「虚洞」
1770755師・夜半亭宋阿の跡を継ぎ、夜半亭二世を襲名。三菓社中を夜半亭社中と改める。「春星」「謝春星」「東成謝春星」
1771856池大雅の十便図に対し、十宜図を描く。「蕪村」「蕪邨」「三菓居士」「夜半翁」
[太祗・召波が没] 
1772安永元57俳諧撰集「其雪影」刊行。「太祗句選」に序文を書く。 
1773258俳諧撰集「此ほとり」「明烏」刊行。[砂岡雁宕没。この頃川柳が流行る] 
1774359上田秋成の「也哉抄」に序文を書く。芭蕉忌追善の俳諧を催す。呉春入門か。 
1775460「平安人物誌」画家の部に再録される(住所・仏光寺烏丸西入ル)。 
1776561金福寺境内に芭蕉庵再興を企て、写経社会を結成する。 
俳諧撰集「続明烏」刊行。この頃大坂に下る。12月大坂で病臥。[池大雅没] 
娘くの結婚。 
17776622月刊行の「夜半楽」に「春風馬堤曲」「澱河歌」「老鶯児」の3部作を発表。 
娘くの離婚。この頃から「奥の細道図」を多く描く。 
1778763 「謝寅」
1779864連句修行のため、檀林会を結成。「謝寅」「東成謝寅」
1780965俳諧撰集「桃李」刊行。「日本東成謝寅」
1781天明元66芭蕉庵を再興し、「洛東芭蕉庵再興記」を書いて、金福寺に奉納する。「蕪村」「夜半翁」
[江戸で狂歌が流行る]
1782267「平安人物誌」画家の部に再録される。俳諧撰集「花鳥編」を刊行。
芭蕉庵什物として「二見形文台」をデザインする。
1783368芭蕉100回忌追善俳諧に出座する。
10月 病床につく。俳諧撰集「五車反古」刊行。
12月25日未明没。
17844 1月金福寺で葬儀が行われ、同寺の芭蕉庵の傍らへ葬られる。

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