都島区 戦後70年記念事業
2016年3月31日
ページ番号:312962
趣旨
大阪市では、戦後70年の節目を迎える平成27年度に、戦争の悲惨さや残酷さなどを伝えるとともに、改めて平和を考える取組を実施してきました。
都島区役所でも、戦争の歴史を区民の皆様とふりかえり、記憶を共有し、次の世代につなげていく機会として、「都島区 戦後70年記念事業」に取り組みました。
このページ内の記述について
このページは「平和ときずな 戦後70年記念事業報告書」に基づいて作成しております。
当該報告書の作成にあたっては様々な注意を払っておりますが、戦後70年経過した現在の情報に基づいて作成しております。その内容の正確性等については、今後修正を行うこともありますので、ご理解いただきますようお願いします。
事業概要
写真募集
区民の皆さんから、戦前から戦後までの写真や資料を募集しました。
広報誌、ホームページ、フェイスブック、ツイッター、口コミ‥などで、「まずは、お話をお聞かせください」とお声がけしました。
「当時はカメラを持っている人は少なかった」、「写真はあったが、被災した」‥など、最初は集めるのが難しく感じられましたが、新聞などでとりあげられると、次第に口コミで広がり、区外にお住まいの都島区に関わりのある皆さんを含め、90点あまりの資料をご提供頂きました。
区民ギャラリーでの展示
区民の皆さんからご提供いただいた戦争当時の貴重な写真や資料、ピースおおさか国際平和センターからお借りした大阪大空襲の写真パネルなどを、区役所1階の区民ギャラリーに展示し、区役所を訪れる区民の方々にご覧頂きました。
【期間】
平成27年8月3日(月曜日)から
平成27年8月27日(木曜日)まで
【場所】
区役所正面入口 ギャラリースペース
第41回 都島区民まつりでの展示
子どもから大人まで、幅広い参加者でにぎわう区民まつり。地域団体、NPO団体の出展と一緒に、区役所ブースでは、区民の皆さんからご提供いただいた戦争当時の貴重な写真などを展示しました。
区役所の若手職員を中心とする“職場改善チーム”メンバーを中心に、46点を作成し、展示しました。
写真を食い入るように見つめる子どもたちに、ご年配の方が、当時の様子を説明されることもありました。
【日時】
平成27年9月26日(土曜日)
【場所】
毛馬桜之宮公園
デジタルアーカイブ
地域の取組
京橋駅空襲被災者慰霊祭
京橋駅での被災者を祀るため、昭和22(1947)年に慰霊碑が建立され、昭和30(1955)年から毎年、爆撃のあった8月14日に妙見閣寺(旭区)により慰霊祭が営まれてきました。
慰霊祭も当初は10名ほどの参列だったそうですが、年を重ねるごとに増加し、今では約250名に。世話人会の事務局も務める妙見閣寺では、より多くの方に来ていただき、この恐ろしい事実を語り継ぎ、平和のために貢献したいと考えられています。
平成27年も、8月14日(金曜日)午前11時から、京橋駅南口の慰霊碑前で執り行われました。戦後70年の節目ということもあり、テレビ・新聞などでも広く取り上げられました。
京橋駅空襲被災者慰霊祭 遺族代表 吉富玲子様のお言葉
8月14日。その日は、軍に召集された兄を見送るため、大阪駅に向かう途中でした。
京橋駅に着いた時には空襲が始まっており、駅員が電車から降りて退避するよう叫びます。
母と手をつなぎ改札口まで逃げますが、爆発で駅舎が揺れ、気付いたときには、がれきに埋まっていました。私は助け出されましたが、そばにいた母も、別の方向に逃げた兄も亡くなっていました。
それからは母が残した着物などを売って食料を買います。思い出すのもつらい経験でした。
「あと1日、戦争が終わるのが早ければ。」
その想いを抱えながら、慰霊祭に参列しました。
東都島戦没者追悼式
平成27年6月7日(日曜日)13時から青都荘前の榎並地蔵において、戦没者追悼式が行われました。70年前に都島区で起こった痛ましい爆撃の事実を風化させないように、世代を超えて哀悼の意を捧げられました。
追悼式では、当時のことを知っていただくため、戦争遺品が展示されました。また、内藤磯美さんにより、当時の様子を描かれた絵が展示され、紙芝居も上演されました。
式の様子は、東都島まちづくり協議会さんのブログでも紹介されています。
東都島連合 小林様のお言葉
先の戦争で大阪は50回を超える空襲に見舞われ、多数の方が犠牲となり街は焦土となりました。焦土の中、住民はバラック建設からスタート、今の繁栄を築きました。
その先達の生活体験などが、この時を逃すと失われるとの思いから榎並地蔵にて戦後70年戦没者追悼式を行いました。
当日、戦争体験者の方々に焼夷弾攻撃の怖さ、戦後の食糧難についてなど貴重な体験をお話しいただき、改めて戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える事の大切さを皆様と共有できました。
今後も戦没者追悼行事を続けることで、子ども達に戦争のない平和な世界を築くための一助になればと思います。
区内の史跡
渡辺綱・駒つなぎの樟(善源寺町1-11)
長徳年間(995-998)に、大江山鬼退治で有名な源頼光が源氏の八幡大神を祭り、この地に産土神社を創建。
頼光自ら植えたと伝えられる樹齢900年と推定される樟は、昭和初年大阪府天然記念物第一号に指定されました。
しかし大空襲で枯死し、現在は往時の姿を偲ばせるだけになっています。
都島神社(都島本通1-5)
昔この地はしばしば洪水に見舞われました。
その惨状をあわれんだ後白河法皇により、毛馬、旧沢上江村(滓上江とも書く)、友渕など8つの村が協力。守護神として永暦元年(1160)にこの神社を創建しました。
空襲により社殿が焼失、昭和24年に再建されました。
内代公園「祈平和」碑(内代町3)
都島区が初めて空襲を受けた昭和20年(1945)年6月7日、20,904戸が焼失、343人が死亡、73,200人が罹災しました。
内代公園には、地域の方々が昭和53年(1978)に建立された碑があります。
「内代町も同年6月7日折からの大空襲に一瞬にして火の海となり降りそそぐ焼夷弾、機銃掃射によって老若男女、幼児に至る60有余名が悲惨な犠牲となられました。」(碑文より一部抜粋)
平和地蔵尊(都島北通2-4)
都島北通公園の平和地蔵尊の、お地蔵さんには、鉄カブトをかぶる兵隊さんの姿があります。
榎並地蔵(都島中通3)
京街道沿いにあるこのお地蔵さんは、“由緒”によりますと、「京街道沿いに、古くからの野江村の方々により、大切にお祀りされてまいりました」とあります。
毎年、地域の方々により、戦没者追悼式が行われ、70年前の第3次空襲の歴史を風化させない取組が続いています。
京橋駅爆撃被災者慰霊碑(片町2-3)
終戦前日の昭和20年(1945)年8月14日の大阪砲兵工廠の空襲では京橋駅が1トン爆弾の直撃を受け、確認されただけでも236人の死者を出しました。当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏が、あまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22(1947)年8月14日、自費で建立された慰霊碑です。
「流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。」(説明文より一部抜粋)
平和よ永遠なれ(片町2-3 JR京橋駅南口ロータリー)
JR京橋駅南口ロータリーにあるこの像は、大阪城東ライオンズクラブにより昭和59年8月1日に設置されました。
このモニュメントは当時、医師として被災者の治療にあたった会員の提言を受け、爆撃で亡くなられた方々の慰霊と平和を祈念するため建てられたといわれています。
ご提供頂いた写真と資料
医師の出征(ご提供:友渕町 島田様)
都島本通と中通にあった島田医院さんです。
医師の先生が出征される時の写真を、ご提供いただきました。
毛馬の閘門(ご提供:大東町 原田様)
毛馬橋の袂から撮影した毛馬の閘門です。
明治40(1907)年に、淀川と大川を行き来する船の往来を助ける「毛馬第一閘門」が、明治43(1910)年に、淀川から大川へ流量を調整する「毛馬洗堰」が、それぞれ完成しました。
淀川の多くの歴史を見てきた施設です。
戦争をくぐり抜けた自転車屋(ご提供:京橋中央商店街振興組合様)
昭和30年頃の、「サイクルショップ キムラ」さん。
この後、数回の改装を経て、今日も現在の場所(都島南通2)で営業を続けておられます。
中央に映っているのは、現在の店主の方です。
一本の銀橋(ご提供:京橋中央商店街振興組合様)
後ろに映っているのは、桜宮橋(通称:銀橋)で、この頃は現在と違い、まだ一本だけです。
大川沿いにまだ砂浜が残っていた当時の様子がよく分かります。
爆撃の後から降ってきたもの(ご提供:東淀川区 浅野様)
終戦当時、毛馬町にお勤め先があったお母様がお持ちのもので、「B29爆撃機のあとに“空から降ってきた”と聞きました」とのことです。
お母様が大切にしまっておられたとのことです。
父の出征をご近所総出で(ご提供:東都島連合 小林様)
ご提供者様のお父様が出征の時の様子です。
「ご近所の皆さんが総出でお見送りをしてくださった」とのこと。
場所は、現在の中央区にあったご自宅で撮られたものです。
父の帰還と寄せ書き(ご提供:東都島連合 小林様)
インパール作戦に赴かれたお父様。
終戦後、帰還されました。
このとき寄せ書きされた日章旗は、今日まで大切に保管されてきたとのことです。
父の出征と親族(ご提供:東都島連合 小林様 )
ご提供者のお父様が出征の時の、ご親族の方々の様子です。
国防は台所から(ご提供:東都島連合 小林様)
大日本国防婦人会江戸堀分会の布です。
お祭り、再び(ご提供:東野田町 多田様)
昭和35年前後の天神祭の様子です。
終戦から数年経ちましたが、戦後はじめて開催されたのがこの頃。
官民一体での盛り上がりが、今の日本三大祭りの賑わいにつながっています。
焼け残った片町(ご提供:網島町 北田様)
昭和24(1949)年頃の国鉄片町駅です。
「12歳の時、はじめて手にしたマイクロカメラで撮りました。家の裏にあった旧片町駅構内と記憶しています。」とのこと。
寝屋川を挟んで南側には京橋大空襲で被災した大阪砲兵工廠跡がありました。
甚大な被害を受けた都島への空襲で、ご自宅とこの片町2丁目の一部が焼け残ったそうです。
武運長久(ご提供:都島本通 窪田様)
都島本通の窪田様より、お母様が保存しておられた写真をご提供いただきました。
地域での防災の取組 1(ご提供:都島本通 窪田様)
町内会の防火訓練の様子です。
ご提供者のお祖父様も写っているとのことです。
地域での防災の取組 2(ご提供:都島本通 窪田様)
同じく、町内会の防火訓練の様子です。
銀橋を渡る木造車両(ご提供:守口市 阪本様)
写真の裏には、「昭和10年6月23日桜の宮大橋市電開通1081型開通」とあります。お話では、当時の車両は全長13m、運転手1名、車掌2名でしたが、木造のため、痛みやすく、その後、新しい形になったとのことです。
空襲の時、ご提供者様は学徒動員で都島区にはおられませんでした。空襲があったと聞き、家に帰ろうとしたが、戻れなかったそうです。
黒煙が語る戦争の痕(ご提供:毛馬町 角田様)
毛馬地域1948年頃の空撮映像です。
お知り合いから頂いたものとのこと。
爆弾のあとが見えます。不発弾もたくさん落ちました。低空から狙われたというお話もお聞かせいただきました。
国防婦人会(ご提供:善源寺町 中山様)
国防婦人会が準備待機している様子です。
防空演習(ご提供:善源寺町 中山様)
戦時下末期の防空演習の様子です。
ラジオ体操(ご提供:善源寺町 中山様)
今の善源寺町2丁目、奥に見える門は、当時の十条製紙の工場です。
横断幕には「祈皇軍武運長久 聖戦四周年記念 都島北通西1丁目西町会」とあります。
子どもから大人まで、元気一杯の体操の様子です。
小学生(ご提供:八尾市 喜多様)
ご提供者様のお父様、中野町の平野様のお写真です。
お父様が小学生の時の集合写真をご提供いただきました。
みんな揃っての坊主頭と制服姿が印象的です。
京橋駅(ご提供:JR西日本様)
JR西日本様よりご提供いただきました、昭和21年6月頃の写真です。
空襲を受けた当時の京橋駅付近の様子が伺えます。
出典「日本国有鉄道百年写真史」
資料集
戦災状況
第3次大空襲
6月7日 11時10分~12時40分
B29約250機、
B42少数機が来襲
焼戸 20,904戸
死亡 343人
罹災 73,200人
第4次空襲
6月15日
全半焼 67戸
死亡 4人
京橋大空襲(大阪陸軍造兵工廠の空襲)
8月14日
京橋駅に1トン爆弾が直撃
死亡 236人
「都島区政50周年記念事業実行委員会」発行「都島区史」をもとに作成
主な史跡
広報誌「広報みやこじま」平成27年8月1日号(No.231)
都島区役所 ホームページ(平成27年8月1日)
都島区役所 フェイスブック投稿より(平成27年2月9日)
報告書(PDF)
戦後70年記念事業報告書
- 報告書(1/4)(PDF形式, 810.92KB)
1.区長挨拶(2p) 2.事業概要(3~4p) 3.地域の取組(5~6p) 4.区内の史跡(7~9p)
- 報告書(2/4)(PDF形式, 564.77KB)
5.ご提供頂いた写真と資料(10~16p)
- 報告書(3/4)(PDF形式, 324.38KB)
6.資料集(17~18p)
- 報告書(4/4)(PDF形式, 652.70KB)
6.資料集(19~24p)
- Adobe Acrobat Reader DCのダウンロード(無償)
- PDFファイルを閲覧できない場合には、Adobe 社のサイトから Adobe Acrobat Reader DC をダウンロード(無償)してください。
探している情報が見つからない
このページの作成者・問合せ先
大阪市都島区役所 総務課(政策企画)
〒534-8501 大阪市都島区中野町2丁目16番20号(都島区役所1階)
電話:06‐6882‐9683
ファックス:06‐6882‐9787