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文化・名所・旧跡

2009年3月16日

ページ番号:741

『だいがく』 (玉出西2-1)

だいがく

清和天皇(858年頃)のとき、ひどい干害に農民達が困まっていた折、日本66カ国の一の宮の神燈と鈴のつく櫓をうちたて、雨乞い祈願をしたところ大雨がふったので、これを喜び、櫓に台をつけてかつぎ太鼓を打って巡遊したのが始まりである。現在残る一基は戦時中、岡山県下に疎開、戦火を免れたものである。鳥居横の「玉出台額(たまでだいがく)最後の懐姿」で昔を偲ぶことができる。

現在では小型のものも造り、毎年生根神社祭礼日(7月24・25日)には出されている。
(昭和47年府有形文化財指定)

『勝間街道』 (こつまかいどう)

勝間街道

江戸時代、難波より木津を通って粉浜中在家(現在の住吉区東粉浜)で紀州街道(住吉街道)と合流していた街道。

「勝間」の名称は、西成郡勝間村として大正時代まで残っていたが、現在、そのあたりは「玉出」と呼ばれている。

昔は結構にぎわった街道で、今はどうなっているか、散策してみるのもおもしろい。

『勝間凧』 (こつまいか)

勝間凧

勝間凧の起源は幕末時代と言われ明治から大正にかけ輸出品として製作された。多くの種類があったが大正時代に廃絶され当時作られた骨付きの凧は現在残っていません。

この凧は、ユニークで真ん中に図柄が描かれ両側に風を受けやすい構造になっており、風を受けて流す「袖」「たもと」とか「風袋」と呼ばれているのがついており、他の凧に無い特徴で、この凧は「たこ」ではなく「いか」と言われている。

絵柄や色彩も豊富で、現在、大阪城天守閣(大阪市所蔵)に収蔵されている。

『津守神社』


津守新田開発の時に勧請された。初めは五所神社、五社大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治4年津守神社と改称し、同5年村社に列した。

祭神は、[天照大御神][稲荷大神][大歳大神][綿津見大神][住吉大神]
(所在地:西成区津守3-4)

『紀州街道』 (住吉街道)

紀州街道

戦国時代の石山合戦のころからと文献に残っている街道であり、大阪から泉州、紀州両国の往復路として重要な街道で、また、豊臣秀吉が住吉神社や堺政所に往来した道で、その頃の街道は風景も素晴らしい道として親しまれたとある。

また、この街道は、恵美須町から天下茶屋・住吉・安立を経て堺・和歌山へ至り、明治には国道29号紀州街道といわれ主要な道路であったと記されている。

『阪堺電気軌道の路面電車』

阪堺電気軌道の路面電車

会社は明治42年に設立され、同44年に恵美須町~浜寺駅前間が開業された。しかし、同方向に鉄道事業を展開する南海鉄道と熾烈な競争が展開され、大正4 年合併し、南海阪堺線と呼ばれるようになったが、昭和55年12月南海電鉄から独立し、新たな事業展開をおこすため新会社を設立し現在に至っている。

今では、大阪市内でただ一つの路面電車であり、その車体には趣をこらした図柄が描かれ、親しみとどこかほのぼのとした下町の情緒が漂います。

路面電車に乗って車窓から楽しんでみませんか、とくに聖天坂駅から天神ノ森駅にかけては、天神ノ森公園の美しい景色が眺められるおすすめのビュースポットです。

『渡し船場』

渡し船場

西成区と大正区の境を流れる木津川では今では珍しい渡し船が活躍しています。

千本松大橋の完成後に千本松渡は廃止される予定でしたが、渡橋に時間がかかるために現在も運航をしている。落合上渡、落合下渡、千本松渡の3カ所の渡船場があり1時間に4回、朝夕の通勤時には随時運航しています。(無料)

 1.落合上渡 / 西成区北津守 4-5-11
 2.落合下渡 / 西成区津守 2-8-21
 3.千本松渡 / 西成区南津守 2-4-88

千本松大橋の登り口が3重らせん形をした全長1245mもの近代的な橋とノスタルジックな渡し船が共存する不思議な風景は見ものです。
“ここから眺める夕暮れの美しさも絶品”

『天神ノ森天満宮』

天神ノ森天満宮・天神の森保存樹

室町時代末期の茶匠・武野紹鴎が当地の森林に湧く泉水を愛し、歳月を送った所で、その水は太閤さんも「恵水」と名づけて褒めたたえました。

社は北野天満宮の分霊を勧請し、菅原道真公をまつり、子安天満宮ともいわれる。これは社殿東側に子安石と称す霊石があり、安産のご利益があるとして参拝者でにぎわった。太閤さんも淀君懐妊のとき、住吉大社参拝の途中、安産祈願したと伝えられる。

『天神の森保存樹』

紹鴎の森ともいう。紹鴎は若くして京都に出て歌道等を学び、特に茶道は極意を感得し、わびの境地をもって茶道の理想とした。晩年の門人に千利休がいる。
昭和43年に老樹くすのき13本が大阪市保存樹林に指定されている。

(所在地:西成区岸里東2-3)

『正圓寺』(しょうえんじ)

正圓寺

西成区と阿倍野区の境界線のところに天下茶屋の聖天さんの別称で知られる正圓寺がある。

天慶2年(939年)光道和尚の開基で、もとは東方の阿倍野村にあったが元禄年間(1688~1704年)に義道見明和尚が現地に諸堂を移転して再建、海を望見できる地形から海照山正圓寺と命名した。

本尊は、著名な慈覚太師の作と伝えられている歓喜天尊を胎内仏として宝蔵した大聖歓喜天王である。 他にも釈迦堂、一願不動、護摩堂、和合殿、地蔵堂なども備えた寺院である。

(所在地:西成区聖天下2)

『苔山龍王』 (こけやまりゅうおう)

苔山龍王

織田信長時代の土佐藩の家老夫婦がこの地で返り討ちに合い、後に豊臣、徳川の夏の陣・冬の陣の戦に天下茶屋一帯が戦場となり、多くの霊がさまよい、徳川家光の慶安3年正月にこの碑が建てられた。

その後長い年月の間に碑が倒れ、いつの間にか溝川の橋に使われていたが、昭和4年南海電鉄線路改修の際、その溝川が埋められた時この碑が出てきた。

当時の町名をとり苔山龍王と命名、地域の守護神として祭られている。

[苔山龍王後援会、苔山龍王の由来より]
(所在地:西成区天下茶屋1-32)

『敷津松之宮西成社』

敷津松之宮西成社

浪速区にある敷津松之宮神社の御旅所である。同神社の由緒略記によれば、神功皇后が武内宿彌(たけのうちのすくね)を従え敷津浜を航行中、松の木3本を植えて航行の安全を祈願したのが起源で、はじめは松本の宮といい、明治維新の頃は八坂神社と称した。

祭神は、
〔すさのおのみこと〕
〔くしいなだひめのみこと〕
〔はちおうじのみこと〕
〔おおくにぬしのみこと〕
〔ことしろぬしのみこと〕
〔すくなひこなのみこと〕

(所在地:西成区松2-3)

『天下茶屋跡』 (岸里東2-10-9)

天下茶屋跡

今から400年余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和62年に現在のものに修復された。

[大阪市顕彰史跡]

『津守新田会所跡』

津守新田会所跡

碑は津守小学校内の北西角にあり、大阪市の建立で「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。

会所とは、地主の別邸で新田内の行政事務や年貢の取締り等を行なっていたところである。

近世になって新しく開発された土地を新田と呼び、津守新田は元禄期(1688~1704)の造成で請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の2人で、1250両を幕府へ上納し、着工 (1698)より3年がかりで72町歩の耕地を開発した。

[大阪市顕彰史跡]
(津守3-1・津守小学校内)

『玉出の環濠』

玉出の環濠

環濠はお城の堀のように水を引くことによって外敵から守る形であったようで、石山合戦の頃、勝間村(現在の玉出の一部)に砦があったと言われ、江戸時代になってからも新しく石垣を築き、東・西の門と言うように造っていったと言われている。

当時の環濠の幅は広い所で約1.8m位で、これを渡る橋は御影石で出来ていて、現在の玉出中学校と玉出西公園を囲むようにあり昭和9年頃まで残っていたと言われ、その後、下水道工事など諸工事で大部分が無くなったと伝えられている。

『十三間堀川』

十三間堀川(昔)

津守新田の開発を始めた元禄11年(1698)に河村瑞軒により開削されたものと伝えられています。当初、七瀬川(津守の北端、浪速区との境を流れていました)から中在家村(住之江区粉浜)まで開削され木津川の水を受けて南へ流れていましたが、宝永元年 (1704)に大和川の付け替えが行なわれて大和川まで延長されると、流れ込む土砂のたい積とともに南部の川床が上がり、逆に北流するようになりました。

十三間堀川(現在)

明治の始めごろまでは、農業用水路として利用されただけでなく、両岸に松の並木、楊柳(やなぎ)などがあり、頗る風情にとみ大坂より住吉に遊ぶものが多かった。

また、十三間堀川の名はその幅員が十三間あったからだと説明されている。

今はほとんどが埋め立てられ、昭和45年2月に開通した阪神高速道路堺線の敷地となっており、住之江区内にこん跡をわずかに止めるだけになっています。

(座談会:津守を語る会の記録から)

『天下茶屋公園』(岸里東1-16)

天下茶屋公園

[阿倍寺塔刹柱礎石]
阿倍寺は四天王寺の末寺で今の阿倍野区松崎町にあったが、現在はここに礎石が保存されている。礎石は花崗岩でできており、白鳳時代の五重ノ塔のものと思われ、中央に柱穴を彫り、その穴の中央に舎利穴がある。
[昭和49年大阪府指定文化財考古資料]

[是斎屋跡]
現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、公園東口の横に石碑が立っている。薬屋是斎屋は寛永年間(1624~44)近江の国の津田宗右衛門が住吉街道に面した当地へ来て「和中散」という薬を商ったのが起こりで、街道の旅人達で大いに繁盛したという。また、茶屋としても有名であった。

『こつまなんきん』 [生根神社内]

こつまなんきん

生根神社にある「こつま南瓜塚」は、同神社の宮司さんによると、勝間村の名産のひとつに「勝間南瓜」があり、冬場の非常食や中風よけのまじないとして、勝間商人によって売られていた。

塚ができた謂れは、江戸時代に飢饉があり、その時、勝間南瓜を食べて、人々は飢えをしのいだそうで、人々の命を救ってくれた南瓜をお奉りしようと塚を作ったのだそうである。

(所在地:玉出西2-1)

『てんのじ村記念碑』

てんのじ村記念碑

昭和52年に建てられた全長6メートル余リはある青石の碑である。

戦前から戦後にかけて山王1丁目から3丁目辺りには、多くの漫才師などの演芸陣や興業師などが集まり居住した。

特に戦災を免れたために一時は関西の芸能人の大半が集まり、洒落めかして自ら天王寺(てんのじ)村と呼んでいた。

(所在地:山王1-10-17)

『近松門左衛門碑・猫塚』

近松門左衛門碑・猫塚

江戸時代中期の浄瑠璃作家、近松門左衛門の巨大な碑である。

明治34年第5回内国勧業博覧会のため、当時、天王寺公園内にあった碑を地主、室上小三郎という人が許可を得て現在地に移したことが台石に書かれている。

猫塚は、明治34年室上小三郎が建てたものである。

この塚は、三味線の胴に張る猫の供養に遊芸関係者の拠金でできたもので、碑も三味線の胴の形をしたユニークなものである。

[松乃木大明神内] (太子2-3-19)

『安養寺』 (岸里東1-7-15)

安養寺

昌芳山安養寺は、浄土宗知恩院派一心寺の末寺で、本尊は阿弥陀仏、元禄2年(1689)3月貞誉清薫尼の創建。明治20年の失火と昭和20年の戦災で2度焼失し、現在の寺は昭和34年再建のものである。境内には、紙治おさん、猪名川、佐藤魚丸の墓がある。

(1) 紙治おさんは、近松門左衛門の最高傑作の一つ「心中天網島」の紙屋治兵衛に貞節 を尽くした妻として有名である。

(2) 猪名川弥右衛門は、大坂相撲の名力士である。墓石には、仁愛深く相撲にひたすらうちこみ、よく稽古をしたため、その名は天下に広まったとの意の漢文が刻まれている。

(3) 佐藤魚丸はすぐれた狂歌師で、当時もっとも世にうけた蝙蝠連(こうもりれん)という狂歌グループのリーダーとなり得意のギャグと風刺の利いた着想の妙で名をあげた。

[大阪市顕彰史跡]

『波切不動尊』

『波切不動尊』の写真

水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和14年に現在の松1丁目で発掘され、大きさは約150センチメートル、同年西宝寺のそばに祀られた。

戦時中、数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難をまぬがれたことなどで、日ごと信仰者が増え、願いごとをかなえてくれる不動さんとして参拝者でにぎわっている。

(所在地:西成区聖天下1-6)

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