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中島大水道の歴史

2023年4月1日

ページ番号:596303

中島大水道ができるまで

江戸時代 延宝6年(1678年) 中島大水道がつくられる

 延宝6年(1678年)には中島大水道が完成した。「水道」という名がついてはいるが上水道ではなく排水道である。西成郡増島村(東淀川区淡路・東淡路・西淡路)にあった新太郎松桶から申新田(此花区伝法町5丁目)に至る間の、延長9.5km、幅は9m~23mの規模で、西淀川区域を縦断していた。

 農業が主産業であった当時は、用水・排水の利水がもっとも重要であった。西成郡は大部分が低湿地帯であるうえに、淀川の度重なる洪水による滞留水(悪水)がなかなか排けなかった。そこで、このような滞留水を排水する水路の開削は、久しく農民から求められていたが、淀川や神崎川・中津川への排水は川床が高くて無理な状況であったため、悪水を直接海に導く長大な排水路が計画されたのである。

 当時の西成郡は「中島」と総称されていたが、そのうち北半分が「北中島」と呼ばれ、北中島はさらに上北中島(東淀川区)と下北中島(東淀川区・淀川区・西淀川区)とに分かれていた。大水道の計画を立て幕府に願い出たのは上中島・下中島のうち二十二カ村の農民であったが、工費がかかりすぎることから公儀普請とはならず、百姓普請として許可された。水道のために農地を犠牲にしなければならない者も少なくなかったが、銀108貫241匁1分9厘の巨額を費やして完成した。これによって野里・佃・稗島・御幣島・大和田・大野・福・申新田の各村々を流れる大水道は昭和初期まで利用され、当区域農業の発展に貢献した。

(出典:中島大水道の開削:西淀川区史P37~)

中島大水道ができるまで(画像解説)


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明治31年(1898年)新淀川工事はじまる(中島大水道と大野川がつながる)


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美しかった中島大水道

 年号が明治(45年)から大正に改元されたのは7月30日である。このころから淀川北岸の当区内では阪神電鉄駅周辺に住宅が増えはじめ、各河川沿いに工場進出が見られたが、中島大水道の流域は、いぜん各所に美しい田園地帯がひろがっていた。

 明治後期から大正初期の中島大水道は、水がすごく美しかった。現在歌島中学校がある八丁橋付近は、満潮時には下流からカニがたくさん上がってきて、水樋にいっぱいぐらい採れたと、祖父がよく話してくれた。また、蜆やどぶ貝も採れた。川の堤は、1m間隔ぐらいに棒杭を打ち、横板を入れて土砂を盛っていたが、その杭のそばに、鮒や鯰がよく集まっており、子どもはそれを狙って網ですくった。川岸には芦がよく繁っていろんな野鳥が飛びまわっていたのを覚えている。

(出典:座談会「西淀川区の郷土史を語る集い」第二回妙録:西淀川区史P75~)

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