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天王寺七名水

2024年3月29日

ページ番号:501812

天王寺七名水

この施設は、当時の湧き水の雰囲気を天神坂に再現したものです

上町台地は、生駒山からの伏流水が地下を通り、良質な井戸水に恵まれた地です。大坂の町がたびたび飲料水不足に悩まされていた時代も、豊富な水が人々の生活を救いました。特に重宝されていたのが、「天王寺七名水」「逢坂清水」と名高い各井泉。天王寺七名水は、金龍、有栖、増井、安井、玉手、亀井、逢坂、の七つの井戸を指します。残念ながら現在は、金龍と亀井の水を残して枯れ果ててしまいましたが、地域の人々の協力を得て、井戸枠などを残しているものもあります。 

金龍の水(きんりゅうのみず) 

天王寺区下寺町2丁目4-10 泰聖寺内

天王寺七名水
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有栖の清水北方に建つ泰聖寺の境内に、水質佳良清冽比類ないと賞賛された金龍の水が湧き出ていました。ほのかな甘味を帯びた良質の水は、茶の湯として賞味され、奥庭には茶室がしつらえてあったといいます。また、泰聖寺は眼病回復で知られる柳谷観音の分霊所で、金龍の水で目を洗うと効能があるとの信仰がありました。長い間断水していましたが、現在は復元されています。

井戸の写真
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有栖の清水(ありすのしみず)

天王寺区下寺町2丁目4-15付近 石碑などはなく場所の特定はできません


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有栖の清水は、その水質を高く評価した土佐藩に買収された時期もある井泉です。
土佐侯在坂時の御用水にするために、四面を囲んで庶民が利用できないようにしたことから、「土佐清水」「観音清水」などと呼ばれていました。有栖山新清水寺の北坂を下ると、東側の石垣の上に、当時は大阪を代表した料亭「浮瀬」の跡(現大阪星光学院敷地)があり、その前方あたりが井戸の湧出地だったとされるところです。

増井の清水(ますいのしみず)

天王寺区伶人町5-35 大阪市顕彰史跡

増井の清水
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文献には、高さ2mほどの岩組の間から湧き出る水を溜めたもので、広さは8畳ほどとの説明があります。水溜場は上下2段に分かれ、江戸時代は上段を武士、下段を町人に汲み取らせていました。かつては酒の醸造にも用いられるほどで「合酒の清水」ともいわれましたが、2か所あった元井戸は跡形もなく、現在は下段の屋形を残すのみです。場所は天神坂の北側、増井弁財天の境内です。

安井の清水(やすいのしみず)

天王寺区逢阪2丁目3 安居神社社務所下

安井の清水
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飲ませると子どもの癇の虫が治まるとの意味から、俗称は「かんしずめ(癇静め)の井」と呼ばれます。安居神社の社務所脇崖下に1mほどの空井戸とそれを取り巻く玉垣が現存します。安居神社は菅原道真が大宰府に左遷される途中に滞在したところで、そのとき患った病気を井戸の水で癒したと伝わります。
大坂夏の陣で真田幸村が戦死した地でもあり、戦死跡の碑も残っています。

空井戸の写真
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玉手の水(たまでのみず)

天王寺区逢阪2丁目8

玉手の水
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玉手の水は、かつては一心寺の西に位置し、天王寺の高台からしたたり来る水であったといわれています。現在は井戸の跡形もなく、完全に枯れ果てており、所在地も不明のままです。
安居神社から逢坂を横切って歩くと、児童福祉施設四恩学園の門付近に「玉手水旧跡」と刻まれた自然石の碑があるのみです。なお、伶人町に建つ清水寺の玉出の滝とは別ものです。

亀井の水(かめいのみず)

天王寺区四天王寺1丁目 四天王寺亀井堂

亀井の水
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四天王寺金堂内地底にあるとされる青龍池から流れてくると伝わり、「白石玉出の水」とも呼ばれます。
亀井堂の中央に設けられた石造りの亀の口から竹筒を通して水が流れ、その水に戒名を記した経木を浮かべて弔う「経木流し」の信仰があるため、彼岸には先祖を供養する人々が多く訪れます。
この水の流れはさらに、新清水寺の滝となっているともいわれています。

逢坂の清水(おうさかのしみず)

天王寺区四天王寺1丁目 四天王寺「中之門」を入って右手

逢坂の清水
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逢坂の清水は一心寺の門前西、逢坂の途中にありましたが、明治末にたび重なった道路拡張で取り払われ、遺構が四天王寺境内の地蔵山に移されました。
現在地には、木枠の井桁と10本の石柱が残されています。『摂津名所図会』に、「小坂清水ともいふ。清冽にして四時増減なし。茶に可なり」との記述があり、酷暑でも水枯れせず、茶の湯にも適した名水だったことがわかります。

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