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阿倍野の歴史・沿革

2014年3月25日

ページ番号:1260

古代の阿倍野区

古代の阿倍野区の地図

 阿倍野区は、大阪の高台(上町台地)に展開された集落でした。
生駒山脈、金剛山脈等の山地が、平野に移り変わる場所で丘陵や台地が広がり、丘陵の一部がいわゆる上町台地(古代には難波岡ともいわれている)を形成していました。
この辺りの石器時代の遺跡からは、シカ、イノシシ、カモ、キジなどの骨をはじめ、貝塚や鯨骨、漁具の蛸壷、くり船などが発見されています。
このように、山の幸とともに海の幸にもめぐまれ、楠や松、杉などの大木がうっそうと茂り、気候は温暖で、食べ物に満ち溢れた美しい土地でした。

中世・近世の阿倍野区

熊野九十九王子社跡の地図

熊野九十九王子社跡

 平安中期ごろから、上皇や貴族の間に、熊野詣(くまのもうで)が盛んになりました。熊野街道は、大阪の渡辺津から和泉の小栗街道を経て紀伊に入り、熊野本宮へ行く街道で、沿道には熊野九十九王子と言われる神祠がまつられていました。阿倍王子、住吉には住吉王子がありましたが、現在では阿倍王子だけが今も神社として祭られています。
 鎌倉時代から室町時代にかけては、戦場としての様相をみせはじめ、応仁元年(1467)に起こった「応仁の乱」において、しばしば天王寺・住吉・上町などで畠山と細川の両軍の合戦が繰り返され、上町台地は荒れ果ててしまいました。
 一方、堺は、文明8年(1476)以来、遣明船の貿易港として栄え、焼け野原となった京の町から新興都市堺へ集まってくる町人や商人も多く、京と堺の交通路であった阿倍野街道も、そうした商人の往来で賑わうようになりましたが、上町台地の裾野をはしる紀州街道が出現してからは、かえってこちらの街道が賑わうようになり、再び、ひなびた農村地帯となってしまいました。

明治の阿倍野区

馬車鉄道風景(山田小三郎氏画)のイラスト画

馬車鉄道風景(山田小三郎氏画)

 明治の初めごろ、阿倍野は米・麦をはじめカブラ・ダイコン・カボチャ・ナタネなど時には綿も栽培する農村でした。主に、街道沿いの阿倍野村に約63戸、猿山新田に約28戸の農家があるだけで、見渡す限り田畑や原野が広がり、狐狸なども棲むさびしい場所だったといわれています。しかし、もともと高台で風景に優れていたことから、明治25~26年頃、当時の天王寺警察署長の発案によって、天下茶屋の鯨池を中心に天下茶屋、聖天山、阿倍野神社一帯に遊園地の建設計画が進められたことにより、良好な住宅地として注目されるようになりました。
 近代交通機関としては、明治33年9月、天王寺西門~東天下茶屋間(同年11月に上住吉まで延伸)に大阪馬車鉄道株式会社によって、馬車鉄道が開通しました。当初馬15頭に車両は7台でしたが、今日からするとこのユーモアあふれる風景も当時にあっては、斬新な交通機関として人気を集めていたようです。馬車鉄道も明治42年南海電鉄と合併し(昭和55年南海から分離)、電車に切り替えられました。今も、阪堺上町線のチンチン電車として親しまれています。

大正の阿倍野区

大阪大学南校(旧大阪高等学校)の写真

大阪大学南校(旧大阪高等学校)

 大正3年第1次世界大戦が始まると、紡績業を主な産業として発展してきた大阪市は、機械・化学を中心とする重工業化が進み、商都から商工業都市へと脱皮しました。商工業が飛躍的に発展した大阪市の人口は飽和状態となり、阿倍野を含む大正元年当時の天王寺村の人口は、約1万1000人あまりでしたが、大正14年の大阪市編入の際には6万人を越え、中小都市に匹敵する人口を有するまでになりました。しかし、当時はまだ「阿倍野区」の名前はなく、まわりを含めて住吉区になっていました。人口の増加による交通網の発達や、閑静な環境から、学校適地とされ、市内の有名校が次々と移転してきたのもこのころで、大正10年には大阪高等学校(通称、大高、現大阪大学)も設立され、学制改革により閉鎖される昭和25年まで、幾多の逸材を世に送り出してきました。

昭和前期の阿倍野区

昭和前期の御堂筋線の写真

 大阪市の都市づくりは、昭和初めから10年ごろまでに目覚ましい躍進をとげました。大正時代に計画された大規模な都市整備が進展、昭和12年に御堂筋が完成し、昭和13年、地下鉄は梅田~難波間から、待望の天王寺まで走るようになりました。天王寺・阿部野橋のターミナルの乗降客は日を追って増え続け、東京の新宿に匹敵する大阪の南の玄関口と称されるようになりました。それまでは、貫通道路はなく、道も狭く曲折したり、袋小路のようなものが多かったのですが、大正12年から昭和4年にかけて土地区画整備事業により、街路の建設が進み、今日の整然とした碁盤目状の町並みが完成しました。
 昭和10年ごろから市内にも戦争の色が漂い、発展途上の阿倍野の町並みにも、暗いかげを落としはじめていましたが、昭和12年に大鉄百貨店が建ち、このころから阿倍野界隈が都会らしくなってきました。今の阪和線は大正15年に、国鉄城東線(現JR環状線)は昭和8年に高架が完成して電車が走り、「寺田町駅」は当地の北部に大きな利便をもたらしました。
 昭和18年4月1日、大阪市はそれまでの15区制から22区制に分増区し、住吉区は阿倍野区・住吉区・東住吉区に分区され、世帯数は3万79世帯、人口12万7017人、面積が5.87平方キロメートルの阿倍野区が発足しました。
第2次大戦で大阪市が受けた空襲は50回を数え、当区の被災は比較的少なかったとはいえ、人口は7万902人と激減しました。終戦直後の阿倍野橋は、食料品や衣類・鍋釜を売る露天が並び、斎場前までの道は青空市場となっていました。空襲で焼け野原と化した市内の交通網が復旧し、市バスが走り、地下鉄の延長工事も進み、昭和町を地下鉄が走ったのは昭和26年のことです。

昭和後期の阿倍野区

あべのベルタの写真

 終戦直後の阿倍野橋のターミナル近辺は、被災者・復員軍人・食料買い出しの人々で終日ごった返しており、夜になっても駅の構内外は、雑魚寝をする人たちであふれていました。こうした混乱状態がしばらく続きますが、昭和23年4月には、阿倍野百貨店が、全館オープン(8月に近鉄百貨店阿倍野店と改称)しました。区内各商店も新装開店する店が相次ぎ、阿倍野の町も次第に活況を呈してきました。
 また、戦争中から工事が中断されていた地下鉄工事も再開され、昭和26年の天王寺~昭和町に続き、27年に西田辺まで延長されました。谷町線も43年に谷町4丁目~天王寺、55年に天王寺~八尾南が開通して一層便利になりました。また40年9月には阿倍野歩道橋が完成しました。
 昭和22年4月の6・3制教育実施により、昭和・文の里・阪南・松虫の4つの市立中学校が開校。昭和22年に市立医学専門学校の予科が、23年に学部が設置され、27年4月に新制の市立医科大学となり、30年4月には市立大学医学部となりました。また、24年5月に大阪高等学校が大阪大学南校となりましたが、35年に豊中市の石橋学舎へ移転し、跡地は阪南団地になりました。
 阿倍野再開発事業は、南大阪の玄関口ターミナルに接する金塚地区を対象に、近代商業施設の整備を進めていきました。「あべのベルタ」が62年に完成オープンし、「阿倍野スポーツセンター」「高層住宅棟」も次々と完成しました。

平成の阿倍野区

阿倍野区民センターの写真

 大阪市では、都心部での人口減少、ドーナツ化現象など区政環境の変化に対応するため、平成元年に合区が実施され、それまでの26区から24区制となりました。
 阿倍野区では、引き続き再開発事業の進展が見られ、平成元年には「あべのマルシェ」が完成しました。また、平成2年に阿倍野警察署新庁舎が竣工し、4年には地上18階、病床数1000床の市立大学医学部附属病院が竣工するなど、時代に即応した整備が進められるなか、平成5年には阿倍野区制施行50周年を迎えました。
 高齢化社会が進む中、「生涯学習環境」の整備が謳われるようになり、平成6年には「阿倍野市民学習センター」が開設されるとともに、区内各小学校においても「生涯学習ルーム」が順次開設されました。
 また、高齢化率が20パーセントを超え、いち早く高齢社会を迎えた阿倍野区において高齢者対策が重要な課題となる中で、平成6年には特別養護老人ホーム「いくとく」と、高齢者デイサービスセンター「ふみのさと倶楽部」が開設され、翌年には「阿倍野区在宅サービスセンター」の開設、平成11年には高齢者デイサービスセンター「いくとくII」、平成12年には特別養護老人ホーム「ふれ愛丸山荘」、平成13年には特別養護老人ホーム「阪和苑」が開設されるなど、高齢者の介護支援事業が進められています。
 また、高齢者や障がいのある人の社会参加が促進される中、平成12年には、「交通バリアフリー法」が制定され、交通施設などのバリアフリー化が進められています。
 さらに、核家族化の進行などに伴い、子育てを取りまく環境が大きく変化し、子育て機能の低下が問題となってきている中で、「親子のつどい」の開催など、地域において子育て支援の活発な取り組みが進められています。
平成13年度には、コミュニティ協会の設立と地域住民の活動拠点として区民センターが建設され、コミュニティづくりが進められています。
平成23年4月には、阿倍野再開発事業により、大阪府内最大級のショッピングセンター「あべのキューズタウン」がオープンしました。
 区域全体としては、比較的閑静な住宅地として発展してきたところであり、高齢化率は市内でも高位で、いきいきとした長寿社会の実現と、快適な生活環境をめざして、ふれあいとぬくもりのあるまちづくりが進められています。

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