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伝説・人物

2018年12月14日

ページ番号:1565

梶井基次郎(かじい もとじろう)

梶井基次郎の石碑の写真

 「檸檬(れもん)」などの短編小説で知られる梶井基次郎は、その31年に及ぶ生涯で約20編の作品しか著さなかった寡作家である。しかし、残された作品はどれも鋭敏かつ繊細な感覚にあふれ、その幻想的で象徴的な作風は独特の世界を築いている。生前よりもむしろ没後に評価の高まった作家であり、のちの日本の文学界に与えた影響は大きい。
 彼は明治34年(1901)に大阪市西区土佐掘に生まれた。進学した京都の旧制第三高校の演劇研究会の仲間が中心となって作った同人誌「青空」を中心に活動し、その作品の半数以上が掲載された。
 短い生涯の中で20数度の転居を行い、京都、東京、伊豆湯ケ島温泉などに住んだが、昭和6年(1931)に、この阿倍野区王子町に移り住み、そこで翌昭和7年3月24日に永眠した。

菅 楯彦 (すが たてひこ)

 大阪の市井・風俗をえがいた日本画家。明治11年鳥取県生まれ。
父は四条派の画家で、本名は藤太郎。2歳のとき、父に伴われて来阪し、以後、大阪で南画、狩野派、四条派の影響をうけた独自の画風を築いた。また国学・漢学にも明るく、大和絵風の歴史絵を好んで描き、とりわけ大坂の絵によって名声を得た。昭和32年に芸術院恩賜賞を受賞、画集「東京と大坂」などがある。豪放磊落、世話好きで、誰からも尊敬される人柄だった。
 昭和37年に名誉市民の称号を受け、翌38年に85歳で亡くなった。墓は阿倍野墓地にある。

吉田兼好 (よしだ けんこう)

吉田兼好の石碑の写真

 「つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
 この徒然草の作者として知られた吉田兼好は、和歌をよくして後宇多天皇に仕えたが天皇の死後出家し、南北朝の戦乱をさけて京都吉田山に隠れ住み、兼好法師とよばれた。
 その後、兼好の家僕・命婦丸の郷里である当地の丸山に移り、藁を縄につくろい、筵(むしろ)を織って糧にするという清貧自適の生活を送った。松虫通3丁目の海照山正圓寺の表参道横にある大聖歓喜天と彫られた石標の磯石は、兼好法師の「藁打ち石」と伝えられている。また「吉田兼好法師隠棲庵址」の石碑も境内にあるが、これは丸山の地から移されたもの。

安倍晴明 (あべ せいめい)

 安倍晴明公は、現神社の土地で誕生したと伝えられている。
 少年時代に京に上り、天文・陰陽道・推算術を修め、天文司廊大博士、大膳大夫、播磨守等を歴任した。著書に「金烏玉兎集」「占事略決」などがある。寛弘2年(1005年)9月に死去。

 

伊東静雄 (いとう しずお)

伊東静雄の石碑の写真

 昭和4年、京都大学を卒業した伊東静雄は府立住吉中学に赴任し、北田辺や阪南町に住んだ。昭和7年に結婚し、阪南町中3丁目20番地、旧大阪高等学校(現阪南団地)近くに新居をおいた。「文明湯」という、新興住宅地にふさわしいハイカラな名の風呂屋も近くにある棟割り2階建の長屋だった。
 この阪南町時代に、伊東静雄は、萩原朔太郎に激賞された第1詩集「わがひとに与ふる哀歌」の優れた作品を書く。松虫通に文学碑が建立されている。(松虫通2丁目)

北畠顕家 (きたばたけ あきいえ)

北畠顕家の石碑の写真

 北畠顕家(1318~1338)は南北朝時代の武将で、後醍醐(ごだいご)天皇に仕え、建武中興のとき16歳で陸奥守に任ぜられ、父の親房(ちかふさ)とともに奥羽平定に当たった人である。
 この地は、「太平記」に「五月二十二日、和泉の境阿倍野にて討死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切り疵を被って一人不残(ひとりのこらず)失(う)せにけり」と記され、顕家が20余騎の手兵で足利尊氏(あしかがたかうじ)の大軍を迎え討ち、弱冠21歳で戦死したと伝えられる。

阪田寛夫 (さかた ひろお)

サッチャンはね サチコっていうんだほんとはね
だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッチャンて よぶんだよ
おかしいな サッチャン
 この有名な童謡の作詞者でもある芥川賞受賞作家の阪田寛夫の家は、現在の松崎町3丁目にあった。「薄赤色の西洋瓦の屋根、同じ厚いコールタール塗りの横板を鎧戸のように重ねて打ちつけた、大正から昭和初期に流行した工法の板壁の洋館で、大阪四天王寺の庚申堂から住吉神社の方角に通じる庚申街道に向かって、玄関口をあけていた」と彼の作品「庚申街道」に書いている。

秋田 実 (あきた みのる) 《本名:林 広次》

 作家・漫才台本作者。
 明治38年(1905)7月15日、大阪市で生まれた。
 東大哲学科に在学中、全国協議会レポーターとして活動。東大系同人誌「集団」の同人となったが、満州事変後、庶民的ニヒリズムへ転向、漫才台本作者となって吉本興業文芸部に入り、庶民的楽天主義を基調とした漫才せりふのパターンを作りあげ、エンタツ・アチャコに代表される黄金時代を築いた。戦前の小説に「百貨店漂流記」「微笑む町」などがある。
 戦後もNHK上方演芸会育ての親として知られ、関西大衆演芸の中心人物として活躍した。大阪文学の特異な存在で、上方の笑いを全国に広めた功により紫綬褒章を受賞。
著書に「秋田実名作漫才選集」「私は漫才作者」などがある。
 昭和52年(1977)10月27日、大阪市阿倍野区播磨町で没した。

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