ページの先頭です
メニューの終端です。

003 阿麻美許曽神社

2019年1月24日

ページ番号:32765

神社は矢田村の氏神であるので、大和川の付替後にも松原市に属さず、松原市天美西3丁目と天美北7丁目の間にある370mの道路(旧府道26号線)は、象の鼻のように細長く、現在も東住吉区矢田7丁目とされています。矢田村氏神の参道として残されているのでしょう。旧狭山西除天道川は、この参道の東側をジグザグに北上していたと思われますが、大和川の開削後は干拓されて元の川は西除川として浅香山の方向に付け替えられています。
現在の祭神は素戔鳴尊、天児屋根命、事代主命と一般に知名度の高い神様が並んでいますが、金剛寺本では1座とあり、主祭神名は不明です。
式内社調査報告書(河内国編)、381頁によれば、「神名帳考證」を引用して、主祭神を「中臣の祖、大小橋命の子で阿摩比古命(アマノヒコノミコト)であろう」と推定しています。
須牟地寺や中臣須牟地神社が中臣氏に縁が深いことからもわかるように、この辺りが中臣家の支配地であったこと、および神社名の許曽は尊称を意味することから、「アマノヒコを祭神とする説」は説得力があります。
一方、「河内国式神私考」によれば、舊事記に見える「彦己蘓根命(ヒコミソネノミコト)」とする説があり、「河内国造の祖で、丹比の天見丘に葬る」(春原政包日記)とあります。
この説の理由には、「物部氏が滅びた後に中臣氏がこの地を占拠し、祭神を阿摩比古命に入替えた可能性がある」ということにあるようです。
先代舊事本紀巻第十国造本紀には「神武朝期に河内国造に彦己曽保理命が任命された」と見えるので、この神社を物部系の神社に分類する人があり、そこで上記のような仮説が考えついたのではないかと考えられます。
拝殿は文久3年(1863年)建造のもので、本殿は独特の阿麻美造で昭和35年(1960年)に再建されました。 樹齢500年の楠木の群は大阪市条例で保存樹林に指定されています。
阿麻美許曽神社

手洗舎の東側に「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています。 
 行基はその師の道昭とともに、民衆への伝道に力を入れました。   しかし、「行基の天美での滞在は行基年譜に見えない」ので、この石碑の裏付けが難しいともいえます。
一方、中臣須牟地神社伝承から、天神山(矢田北小学校や城南学園用地)に行基建造の呉坂院が建造されていたと考えるなら、天神山は当神社から北々東に僅か1.6kmであるので、この神社付近も行基が関与した可能性があるともいえます。

探している情報が見つからない