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003 阿麻美許曽(あまみこそ)神社

2023年11月6日

ページ番号:32765

 東住吉区矢田地域の大和川対岸の松原市に食い込むようにストローをくわえた顔の輪郭のような東住吉区の飛地があります。

 これが阿麻美許曽神社の境内と参道に付随する地域で、阿麻美許曽神社は矢田村の氏神でした。江戸時代の宝永元年(1704年)大和川の付け替え工事が行われ、矢田村は氏子村民が住む地域と氏神神社が分断されました。川で分断されても両者は一体と見なされ行政上も東住吉区域となっています。

 現在の祭神は素戔鳴(すざんめい)尊(たける)、天児屋根命、事代(ことしろ)主命(ぬしいのち)と一般に知名度の高い神様が並んでいますが、金剛寺本では1座とあり、主祭神名は不明です。 

 式内社調査報告書(河内国編)、381頁によれば、「神名帳考證」を引用して、主祭神を「中臣の祖、大小橋命の子で阿摩比(あまひ)古(ふる)命(いのち)であろう」と推定しています。

 須牟地寺(すむちでら)や中臣須牟地神社が中臣氏に縁が深いことからもわかるように、この辺りが中臣家の支配地であったこと、および神社名の許曽は尊称を意味することから、「アマノヒコを祭神とする説」は説得力があります。

 一方、「河内国式神私考」によれば、舊事記(もとことき)に見える「彦己蘓根命(ヒコミソネノミコト)」とする説があり、「河内国造の祖で、丹比の天見丘に葬る」(春原政包日記)とあります。

 この説の理由には、「物部氏が滅びた後に中臣氏がこの地を占拠し、祭神を阿摩比古命に入替えた可能性がある」ということにあるようです。

 先代舊事本紀巻第十国造本紀には「神武朝期に河内国造に彦己曽保理命が任命された」と見えるので、この神社を物部系の神社に分類する人があり、そこで上記のような仮説が考えついたのではないかと考えられます。

 拝殿は文久三年(1863年)建造のもので、本殿は独特の阿麻美造で昭和35年(1960年)に再建されました。 樹齢500年の楠木の群は大阪市条例で保存樹林に指定されています。

阿麻美許曽神社
阿麻美許曽神社2

 手洗舎の東側に「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています。

  行基はその師の道昭とともに、民衆への伝道に力を入れました。しかし、「行基の天美での滞在は行基年譜に見えない」ので、この石碑の裏付けが難しいともいえます。

 一方、中臣須牟地神社伝承から、天神山(矢田北小学校や城南学園用地)に行基建造の呉坂院が建造されていたと考えるなら、天神山は当神社から北々東に僅か1.6kmであるので、この神社付近も行基が関与した可能性があるともいえます。

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