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区のおいたち

2017年12月13日

ページ番号:174

今宮戎神社の写真


 遠い昔、上町台地のすぐ西まで海がきており、難波江とか難波潟と呼ばれていましたが、大和川と淀川の二大河川が運んできた土砂が浅瀬、洲をつくり、後に浪速八十島(多くの島の意)を形成しました。このように、当区の大半は、かつては海あるいは葭や芦の繁る地でした。

  鎌倉期に入って、古文書に今宮、木津の地名と集落の形成がみられ、住民は漁労を中心に暮らしをたてていました。今宮戎神社の信仰が漁労に従事した人々から始まったといわれていますが、この時代の生活を反映したものといえます。戦国期には、細川、三好両氏の軍事拠点として戦場となり、石山合戦の際には織田勢の陣が置かれたり、本願寺方の根来・雑賀衆の木津城が置かれたりしました。江戸期に入り大きく発展し、大阪から堺・紀州街道が通じ街並みが形成され、なかでも日本橋から長町、今宮には旅籠、商家がたち並び、大阪の南口として大変な賑わいをみせていました。また、当時生活物資の大量輸送の手段は水運であったので、難波新川が開削されるとともに道頓堀川西部には諸国から集められた木材を扱う問屋が軒を並べ、難波新川東側には難波新地の茶屋街が賑わいを見せ、近郊農産物を扱う難波木津市場も水路・陸路の整備や人々の集まりによって成立したものと思われます。
 近代に入り明治18年(1885年)わが国初の私鉄となった阪堺鉄道が難波~大和川間に開通、明治22年(1889年)大阪鉄道が湊町~柏原間に開通、明治33年(1900年)大阪高野鉄道が西道頓堀(現汐見橋)~堺東間に開通し、短期間のうちに鉄道網の整備が進展しました。

 

通天閣の写真


 明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会が、現在の新世界から茶臼山東側にいたる地で開催され、非常な活況を呈しました。その後跡地は、ひとつは天王寺公園として開発され、残る地は新世界の通天閣、ルナパーク(ラテン語で月の園の意)などを中心として、興業街が誕生し一大歓楽地として繁栄し地域の発展が大いに進みました。明治後期から大正初期にかけて市電の敷設が進み、商工業もこのような交通手段の拡充発展にともない、大きく発展し、現浪速区の原形ができあがりました。そして、大正14年(1925年)4月1日大阪市の第2次市域拡張により私たちの浪速区が誕生しました。

   区名の決定には、いろいろな案が出されましたが、その昔、博士王仁(わに)が詠んだといわれる「浪速津に 咲くやこの花 冬ごもり 今ははるべと 咲くやこの花」 の古歌に区名を求め「浪速区」と命名されました。

 

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