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区の町名の由来

2009年10月23日

ページ番号:431

十三(じゅうそう)

  町名は、大正14年に大阪府西成郡神津町などが大阪市に編入されたときにつけられました。由来は、西成郡の起点飛田(今の阿倍野)から古代の条里制で数えて十三条で、条がとれて十三になった(例:九条・十八条)、淀川 で上流から13番目の渡しがあったから、などの説があります。明治11年 十三渡しの地に、木橋の十三橋(現在の十三大橋付近)がかけられました。

十三の写真です。

十三大橋

塚本(つかもと)

  「和名抄」に「槻本郷都木乃毛止」とある郷名を村名として採用したことに由来します。「万葉集」には、「槻」を「つか」と読ましている例があると言われています。

 

田川(たがわ)

  住吉大社の社家であった田川権太夫が開発した土地であるという伝えによっています。

 

加島(かしま)

  難波八十島の一つである假島の旧地であるとの伝承によります。加島は假島の字を換えたもので、そのほか蟹島の名も伝えられています。連歌所が香具波志神社に設けられていたので、加島を歌島・賀島と書き換えて用いたり香具波志神社の関係から神島、さらに加島の鍛冶千軒の伝承から鍛冶ケ島でもありました。

 

三津屋(みつや)

  町名は、旧村名ないし旧大字名に由来しますが、三津屋村はもと三社(みつや)村と称した村で、八幡宮が三社あったことによるといわれています。三津屋村に所在した長楽寺・光専寺は、ともに三社山とよばれていました。また三社八幡神社も明治42年6月1日に香具波志神社に合祀され、三社村の名称の原点がわかりにくくなりました。また一説に三社浅右衛門が開発した土地によるという説もあります。

 

野中(のなか)

  町名は、旧村名によりますが、野の中に小さな村をなしていたことによります。野中は下中島の内にあって、三津屋・今里・掘上・加島とともに五箇荘または加島荘とよばれていました。

 

新高(にいたか)

  町名は、当地域が周囲の地域に比べて土地に高度があったことに由来するとも、また一説には「高」は米の石高をあらわし、新しくひらけた土地という意味に由来するとも言われています。また、新高町の町名を設けた大正14年当時新高山(台湾)が日本領で一番高い山として知られるようになっていたことも関連がありそうです。

 

十八条(じゅうはちじょう)

  江戸時代の村名に由来しますが、村名が何によって名づけられたかは不詳です。「東淀川区史」は天坊幸彦の著書「古代の大阪」の説を採り上げ、飛田を西成郡の一条とし、これを起点として六町方眼をもって順次北に数えると、ちょうど十三条の辺に今の十三があり、十八条の名も条理制に起因するとしています。
  しかし、飛田をなぜ西成郡の一条とし、六町をもって単位としたかは述べられていません。

 

西三国(にしみくに) / 東三国(ひがしみくに)

  昔より大字蒲田の西部の一隅に三国島という小字地名があり、それによって阪急電車宝塚線の当地最寄駅名を三国駅と定めたことに影響を受けたのに由来します。桓武天皇が長岡京造営のさいに開削した神崎川を三国川と呼称したことにもよります。冠称の「西」・「東」は町域を東西に二分した際、その西部・東部に位置したことによります。

 

三国本町(みくにほんまち)

  三国駅に近い商工の町として「本町」の付称を用いたことによります。

 

宮原(みやはら)

  町域が中島惣社の社頭(宮)の原にあたっていることによります。

 

西中島(にしなかじま)

  町名は、旧村名を復活させたことに由来しますが、旧村名は古来、下中島と称した地域の西南部に位置することによります。

 

木川(きかわ)

  木寺村と川口新家村が合併して一村となった際、それぞれの頭文字をとって発足したことによります。

 

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