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区内のスポット(13~16)

2009年10月23日

ページ番号:560

■ 塚本如来塚

●塚本6丁目4番街区

塚本如来塚1

 超安寺管理墓地にあります。
 建武年間(1334~1338年)僧法明が念仏宗開祖の教信上人の描いた「阿弥陀如来画像」をいただき、石彫りにして今の福島区海老江あたりに置いたのを、淀川改修で当地に移したと伝えられます。法明は、大阪の平野で大念仏寺を再興したり、深江に法明寺を建立した人です。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

塚本如来塚

塚本如来塚2

 昔、大念仏宗の僧、法明(ほうみょう)が念仏宗の開祖、教信上人の描いた「阿弥陀如来画像」を譲り受けまつるようにと夢の中でお告げを受けました。そこで法明は如来画像をいただき、自然石に阿弥陀如来の座像を彫り、現在の福島区海老江あたりに塚を築いてまつりました。明治 30年ごろ、新淀川の拡張工事により淀川区塚本に移されたということです。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

■ 富坂賢太郎歌碑

●十三本町1丁目21番街区

富坂賢太郎歌碑

 長安寺境内にあり、同寺の本尊を詠んだ、「扉をあけて阿弥陀如来もみそなはせうき世の春の花のさかりを」との和歌が刻まれています。賢太郎は十三で古着商を営んだ不遇の歌人ですが、人柄はまことにすばらしく、花田比露志に認められ、一部で高く評価されました。昭和37年大みそかの夜に、車にはねられ、71歳で世を去っています。この碑は同43年、彼が所属した「あけび歌会」の手で建てられています。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

無名歌人の碑

  十三本町にある長安寺の境内に富坂賢太郎の歌碑があり、そこには「扉をあけて阿弥陀如来もみそなはせうき世の春の花のさかりを」と刻まれています。これは長安寺の阿弥陀仏を詠んだものです。
 富坂賢太郎は明治24年に生まれ、幼いころから苦労の連続でした。昭和2年には古着屋を開きましたがうまくいかず、そのうえ空襲で店は全焼し、妻は病死、長男は行方不明、二男は自殺と不幸が重なりました。昭和37年には賢太郎自身も車にはねられるという不運続きの生涯で幕を閉じました。
 しかし、賢太郎は絶望したり、人を恨んだりはせず、無名ながら歌をこよなく愛して精進を重ね、その人柄の表れたすがすがしい歌は、後世に残るものとなりました。
<区民だより「よどがわ」“わがまち見て歩る記”から>

 

■ 藻井生々堂

●十八条3丁目1番街区

藻井生々堂

 当堂が秘伝とする「十八条血の道薬」は、産前産後の妙薬として知られています。この薬は、永禄3年(1560年)、24代藻井介光が調剤、施薬したもので、介光の先祖藤原仲光は、主君源満仲の息子美女丸を守るため、わが子幸寿丸を殺した「身代わり説話」が残っています。この話は、謡曲や幸若舞に語り継がれていますが、藻井家では今も幸寿丸の冥福を祈る法事を続けています。
<淀川区コミュニティ協会発行 「YODOGAWAKUふれあいマップ」から>

■ 旧街道

●能勢街道

 東海道や中仙道など、時代劇には街道がよく出てきますね。
 わがまちにも旧街道がいくつかあります。能勢街道・中国街道などです。高麗橋を起点とした中国街道から下三番(現中津)で分岐した能勢街道は、中津川の新橋(中津川改修新淀川開削工事でなくなりました)~木川~野中~宮原新家(現三国本町)~蒲田(現西三国)から神崎川を越えて現豊中市・池田市・能勢町を通って亀岡市で山陰道につながります。神津神社に道標が残されており、正面に右小嶋村稲荷神社、裏面に寛政二庚戌(かのえいぬ)年六月と刻字してあります。小嶋は十三東付近の昔の地名、寛政2年ごろ、神津神社は農業神のお稲荷さん、あたりはのどかな農村でした。

 

●中国街道

 十三大橋の南詰、わがまちの対岸に、珍しい常夜灯型の道標があります。高麗橋から茶屋町・中津をへて中国街道を通る旅人は、ここで十三渡の船に乗り(のち十三橋・十三大橋)、掘(現十三本町)~今里 (現十三元今里・田川北)~三津屋~加島から神崎渡で神崎川を越えて、西宮で西国街道(下関~京都)に合流しました。江戸時代、大坂は天下の台所、経済の中心地であり、西国諸藩の蔵屋敷が置かれ、参勤交代に際し大坂に立ち寄る大名も多く、西国街道から大坂に往来する旅人で、中国街道の街道筋はにぎわいました。

<「わがまち淀川区今むかし」から>

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