大阪砲兵工廠跡
2025年2月17日
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大阪市にあった大日本帝国陸軍の兵器工廠。
太平洋戦争敗戦まで東洋一と言われた軍事工場で、主に火砲・戦車・弾薬類を製造していた、また、鋳造・金属加工技術は日本では当時最先端であったため、軍需問わず民需製品も受注していた。
当初の敷地は大阪城三の丸米蔵跡地のみであったが、拡張を繰り返し敗戦直前は土地590万平米、建物70万平米を越えていた。
最大工員数は6万人を超えていたという。
昭和20年(1945年)8月14日のアメリカ軍によるB-29の空襲により、80%以上の施設が破壊され軍需工場としての機能を失った。戦後、不発弾が多く危険であり長らく放置状態にあったため、敷地内に侵入し鉄くずを不法回収し売却する者が多く、警察との争いが絶えなかった。
戦後その敷地は大阪城公園や国鉄(現JR西日本)の電車区、大阪市鉄(現大阪メトロ)の検査場、またOBP(大阪ビジネスパーク)などのビジネス街へと姿を変えており、現在残る遺構はわずかである。


表門

化学分析場
大正8年(1919年)竣工。
ネオ・ルネサンス様式煉瓦造地上2階建、砲兵工廠建築部・置塩章設計
戦後は大阪大学工学部校舎として、1964年から1998年までは自衛隊大阪地方連絡部として使用されていたが、現在は放置されている。

守衛詰所
守衛詰所とも便所跡とも言われており、何の建物であったか不明

第一荷積場
青屋口付近にある石造アーチ荷揚門、明治4年(1871年)竣工

大阪城水道管
明治28年(1895年)大阪城内に大阪最古の配水池が設置された。中央区・天王寺区の一画に今も給水がなされており、大阪城内堀西側石垣から突き出した2条の鉄管はこの水道管であり、配水池へ給水用の鉄管1条、各家庭への配水用の鉄管1条の構成となっている。
水道設置時に品質基準をクリアできる鉄管を製造できる工場は少なく、砲身を製造できる機材が揃った大阪砲兵工廠が製造にあたった。
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