大阪城
2025年2月17日
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大阪平野にある上町台地の北端に位置しており、中央区はもちろんのこと大阪市でも有数のランドマークとして有名である、別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)
輪郭式平城で、天守閣について豊臣期は連結式望楼型5重6階地下2階で、徳川期は独立式層塔型5重5階地下1階、現在は独立式望楼型5重8階鉄骨鉄筋コンクリート構造である。
現在の模擬天守閣は国の登録有形文化財に指定されている。
上町台地は元々周囲を湿地帯で囲まれており、北側は淀川の本流が流れる天然の要害であった。淀川を上ることにより京都に繋がる交通の要所でもあったため、天文2年(1533年)に浄土真宗法主証如によって、濠や土居によって囲まれた寺内町を有する大坂本願寺(石山本願寺とも)が開山された。
その後に織田信長と対立し、元亀元年(1570年)からの石山合戦で10年に渡り戦い続けたが、法主顕如が勅命により講和し同地を退去、その後本願寺は火災焼失した。
本能寺の変を経て豊臣秀吉が政権を握ると、天正11年(1583年)に大坂城の築城を開始した。
一般的には豊臣秀吉の本拠地と認識されているが、秀吉は関白に任ぜられると京の聚楽第(じゅらくだい)に政庁と居館を移し、太閤として隠居すると京都の伏見城において政務を執り同地で没したため、ほとんど在城していないが諸大名の年賀の挨拶は大坂城で受けていた。
大坂城は秀吉の子秀頼と側室である淀殿が居館とし、関ヶ原の戦い後220万石の大大名から摂津・河内65万石の一大名へと転落した。
公家・武家として一定の影響力を持ち続けていた豊臣氏は徳川氏と対立し大坂の陣が勃発、2度の戦いを経て豊臣氏は滅亡、大坂城は焼失した。
江戸時代になり、徳川家康は豊臣大坂城に約2mの盛土を行い、掘割を新たにし新たな大坂城を築き直した、現在見られる大阪城は徳川期の大坂城であり、豊臣期の大坂城は地下に埋没している。
大坂城は後に幕府直轄の城となり代々譜代大名より大坂城代が選ばれ、西日本支配の拠点となった。
大阪城天守閣は寛文5年(1665年)に落雷により焼失、その後再建はされず昭和6年(1931年)に市民からの寄付等により鉄筋コンクリートエレベーター付きの建物として再建、外観は大坂夏の陣屏風に描かれている天守を元に建てられており、外壁にあしらわれた虎のレリーフは狩野派の伏虎図をもとに製作され、この虎のレリーフは阪神タイガース命名の由来になったともいわれている。太平洋戦争の空襲でも大きな被害はなく、平成9年(1997年)9月に天守閣は国の登録有形文化財に指定される。
本来は「大坂城」と書くが、明治5年頃から「坂」の字が「土に返る」とも「士族の反乱」に繋がるともされ「阪」の字が使われるようになったといわれる。


大阪城梅林
大阪城の内濠東側にある梅林は、大阪府立北野高等学校卒業生が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付し、昭和49年3月に開園。
早春には色とりどりの梅が花をつけ、訪れる人たちを楽しませている。
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