南御堂
2025年2月17日
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南御堂は本山である東本願寺の別院であり、正式名称は真宗大谷派難波別院、浄土真宗の真宗大谷派の寺院である。本尊は阿弥陀如来で、南御堂の梵鐘は大阪市指定有形文化財となっている。
これに対して北に位置する本願寺津村別院は北御堂と呼ばれる。
大阪市の大動脈である御堂筋(国道25号)及び大阪メトロ御堂筋線は、北御堂、南御堂の門前を通ることに由来する。
大阪での本願寺は、証如が上町台地北端に天文2年(1533年)に開山した大坂(石山)本願寺が最初である。
しかし後に織田信長との石山合戦の結果、本願寺は退去し同地に大坂城が建設された。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より大阪渡辺(現道修町1丁目付近)の地を与えられ、隠居していた教如が大谷本願寺を開創し、慶長3年(1598年)に町割改革により現在の地に移転する。
しかし、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)に徳川家康より京の烏丸七条付近に寺領が寄進され、教如は大坂より京へ寺基を移転し東本願寺となり、大谷本願寺跡は難波別院として造営される。
難波別院の名称は、同地が摂津国西成郡上難波村であったことに由来する。
その後、北御堂と併せ大坂の町の発展と共に歩み、宝永2年(1705年)に本堂を含む諸殿の再建を行い、その敷地は5800坪と拡大し、本堂も従来よりも大きなものが建設された。
南御堂・北御堂は大坂商人より、「御堂さんの屋根が見えるところで、鐘の聞こえるところで商売を」と言われるほど身近な存在でありランドマーク的な施設であった。
しかし、昭和20年(1945年)3月13日からの第1回大阪大空襲により、本尊阿弥陀如来像、親鸞聖人の御影や一部の建物を残し灰燼に帰してしまう。
翌年昭和21年(1946年)には仮本堂が設けられ、昭和36年(1961年)に本堂再建を迎える。


襖絵

戦前の難波別院
戦前の本堂は境内に松が多数植えられていたところから「松の御堂」と呼ばれていた。

戦後復興

梵鐘
文禄5年(1596年)鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘が今も残る。
「大阪市指定有形文化財」

境内庭園「獅子吼園」
俳聖・松尾芭蕉は南御堂の門前にあった花屋仁左衛門宅において亡くなりました。
南御堂には亡くなる前に読んだ句を刻んだ句碑が建っており、「旅に病でゆめは枯野をかけまはる」と刻まれています。
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