石山(大坂)本願寺推定地
2025年2月17日
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鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然の教義を基に教えを広め、後に門徒たちが教団として発展させたのが「浄土真宗」である。
今までの仏教が自分自身を高めることをで救いを求めるのに対し、浄土真宗は阿弥陀如来が等しく万人を救うという他力本願を主とし、細かい作法や戒律もないことから庶民に広く受け入れられた。
始め本願寺は大谷の地(現京都市東山区)に寺院を建立するが、延暦寺などの妨害により京を去り各地を回るようになる。
浄土真宗の勢力はその間分派しながらも門徒を増やしていった。
一大勢力となっていった本願寺勢力は、本拠を構えていた加賀(現石川県)では守護大名のお家騒動に介入し滅ぼすといったことまで発生する。
文明10年(1478年)に蓮如は本拠地を京に戻し山科本願寺(現京都市山科区)の造営に着手し、それと共に寺内町も形成され賑わいを見せるようになる。
しかし山科本願寺は天文元年(1532年)に六角氏と法華宗により焼き討ちに合う。
法主証如は大坂御坊(後の石山本願寺)におり無事であった。
石山(大坂)本願寺は、上町台地は元々周囲を湿地帯で囲まれており、北側は淀川の本流が流れる天然の要害であった。淀川を上ることにより京都に繋がる交通の要所でもあったため、山科本願寺を追われた証如は天文2年(1533年)に、濠や土居によって囲まれた寺内町を有する石山(大阪)本願寺が開山された。
その後に織田信長と対立し、元亀元年(1570年)からの石山合戦で10年に渡り戦い続けたが、法主顕如が勅命により講和し同地を退去、その後本願寺は火災焼失した。
本能寺の変を経て豊臣秀吉が政権を握ると、天正11年(1583年)同地に大坂城の築城を開始した。
現在の石山(大坂)本願寺跡は、徳川家康が再築した大坂城内にあり、豊臣秀吉・徳川家康により地形が大きく改変されたこともあり当時の面影は残っていない。

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