名所・旧跡
2024年7月24日
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区内碑めぐり
松瀬青々旧跡(まつせせいせいきゅうせき)

松瀬青々は明治2年4月船場の薪炭商の長男として生まれた。本名は弥三郎、北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店に入社した。28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、勤めていた第一銀行を辞めて上京し「ホトトギス」の編集にあたった。明治33年大阪へ戻り大阪朝日新聞社に入り朝日俳壇を担当した。翌年「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊し、没年までこれを主宰した。また、句集『松苗』『妻木』などを発刊した。松瀬青々の俳句は、清澄な主観的人事句にすぐれ、関西の高浜虚子と言われた。
明治39年の年の瀬に、生地の大川町(中央区の北浜4丁目)から八坂神社の近くに移り、大正10年まで住んでいた。そこに今、「松瀬青々旧跡」の碑が建てられている。 松瀬青々は、昭和12年、69才で亡くなったが、青々13回忌に海老江に住んでいたころの門人たちにより、「南桂寺」境内に「青々先生」と刻んだ碑が建てられている。
逆櫓の松跡(さかろのまつあと)
福島2-2-4(マンションドミール堂島前)
「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年(1185年)2月、源義経は平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。

源義経は、船での戦いはあまり経験がなかったので、みなで評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓 (オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。結局逆櫓をつけずに戦ったが、その論争をしたところがこの場所と伝えられている。
江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。明治の初めには七尺程の根を残していただけと伝えられ、その根も明治42年の北の大火で焼失した。大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていた。昭和33年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49年5月地元有志によって、現在地に移設された。
福沢諭吉誕生地
「天ハ人ノ上ニ人ヲツクラズ、人ノ下ニ人ヲツクラズ」の言葉で知られる福沢諭吉は、天保5年(1835年)豊前中津藩士福沢百助の兄1人、姉3人の5番目の末子として、同藩大坂蔵屋敷(旧阪大病院跡)のこの地で生まれた。
天保7年6月、福沢諭吉は生まれて1歳6か月のとき、父百助を亡くし、母と兄姉4人とともに郷里中津に帰郷し、19歳まで過ごした。大分県中津市ではその家を諭吉ゆかりの地として顕彰し、記念館を併設して現在一般公開している。

福沢諭吉は幼年から漢学を学び、英才ぶりを発揮したが、兄の勧めで蘭学を志し安政元年 (1854年)に長崎に遊学した。翌年、帰阪して緒方洪庵の適塾に入門し、塾長をつとめるまでになり、のちに藩の招きで江戸へのぼり、中津藩奥平邸で蘭学塾を開き、子弟の教育にあたるかたわら英学の独習も始めた。その英語の語学力を見込まれて、勝海舟らと共に咸臨丸に乗り込み米国に渡るとともに、欧州6ヶ国を見聞して帰国後は、慶応4年(1868年)慶応義塾を開設した。また「学問ノススメ」を発刊するなど、時代を象徴する思想家として名を残した。その福沢諭吉誕生地を示す碑が、旧大阪大学附属病院跡にある。
浄正橋跡碑(じょうしょうばしあとひ)

国道2号線となにわ筋の交わる交差点を「浄正橋」と今は言うが、実際は、その交差点から約 100メートルほど南に下ったところを、東西に「蜆川」と言う川が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」と言われていた。大正15年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てたが、その碑は、福島2丁目1番の歩道に建っている。
21人討死之碑(にじゅういちにんうちじにのひ)

天文2年(1533)福島・野田を訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼の手勢に不意をつかれた。野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃したが、信徒21人が犠牲になった。後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔った。
松下幸之助創業の地記念碑

大正7年、松下幸之助が大開で「松下電気器具製作所」を始めた。生活を豊かにする多くの電化製品を世の中に送り出し、会社は大きく成長した。借家を改装して作った工場で、幸之助は「改良アタッチメントプラグ」、続いて「二股ソケット」を考案・発売。品質が良く、価格も安かったために、売上は大きく伸びた。4年後には従業員が50名を超す企業となり、新工場を建設。自転車用のランプなども発売、会社はさらに発展した。
大開に住んでいた15年ほどのあいだ、社会事業のために、数回にわたって寄付をされていた記録が残っている。また、野田恵美須神社の氏子総代(うじこそうだい)を務められていた時期もあった。
創業時の工場では狭くなり、大正11年と昭和4年に大開町の中で移転をした。この跡地をお世話になった地元に寄贈をしたいと、旧友の藤井森男氏〈故人・藤井金属化工株式会社社長〉に相談をした結果、ベビーブームで当時不足していた幼稚園と公園として使用されることになった。平成16年、その大開公園に記念碑が建立された。
雙松岡碑(そうしょうこうひ)
福島1-1-60(大阪中之島合同庁舎敷地内/旧大阪大学附属病院敷地内)
雙松岡は幕末の文久元年(1861年)に開かれ、尊王攘夷を鼓吹した漢学塾である。この塾を開いたのは江戸・昌平黌の同門、松林飯山・松本奎堂・岡鹿門の3名で、彼らの名を1字ずつとって塾名としたものである。文久2年、尊王倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、わずか半年で閉鎖された。
松林飯山は、天保10年(1839年)筑前に生まれ、9歳の時に肥前大村に移り、安政3年(1856年)18歳で昌平黌に入り、安政6年21歳の時、肥前大村に帰り、藩校の学頭になった。万延元年(1860年)大坂に出て雙松岡塾設立に尽力したが、塾閉鎖後は再び大村に帰り教授となり、勤王思想を説いていたが、慶応3年(1867年)1月、反対派の兇刃に倒れた。享年29歳であった。
松本奎堂は三河刈谷藩士で、22歳の時、昌平黌に入り、安政5年昌平黌を去った儒学者。尊王倒幕の維新中興の人といわれ、閉塾後は同志38名とともに「天誅組」を起こし、文久3年9月、戦いに敗れて自刃した。享年33歳。

岡鹿門は、天保4年仙台に生まれ、嘉永5年(1852年)20歳の時に昌平黌に入り27歳の時、仙台に帰国したのち大坂へ出たが、塾閉鎖後は江戸の仙台藩校の教授となって藩の教育に努め、のち文人墨客となり各地に遊び、大正3年82歳で没した。
雙松岡碑は、大阪帝国大学二代目総長であった楠本長三郎の亡父が大村の藩校で松林飯山に教えを受けていた繋がりから、楠本長三郎をはじめ長崎県人会が昭和18年に建立したものである。
この碑は一時撤去されていたが、現在、大阪中之島合同庁舎敷地内に復元された。大阪市教育委員会の第194号顕彰史跡にも指定され、碑の近くにその説明パネルも見ることができる。激動の時代を表す貴重な資料として次代に残したいものである。

区内神社めぐり
八坂神社
海老江6-4-2
神社の創建の時期は詳しくはわからないが、境内に天治(1124年頃)大治(1126年頃) の年号が記された石灯籠があり、また、村の旧記に永徳3年(1383年)霜月社殿再建と書かれていることからして相当古い神社である。その昔は、牛頭天王社と呼ばれていたが、明治の初めに八坂神社に改称された。この付近は、鷺洲とか海老江洲と呼ばれた砂洲であり、干拓により村ができ鎮守社として創建されたものと思われる。元亀元年(1570年)織田信長が石山本願寺攻めで野田城の三好一族を討とうとしたとき、戦勝を祈り、先陣の将、荒木村重に命じて陣馬陣刀を献じたと記録にある。
境内には明治後期に関西の俳壇で活躍した松瀬青々の句碑がある。「菜の花のはじめや北に雪の山」と詠まれ、菜の花畑をとおし、雪をいだいた六甲山を望み詠んだもので、明治40年の作である。

毎年12月15日深夜、宮座神事が古式そのままに非公開で施行されている。昭和47年1月大阪府無形文化財に指定された。
宮座神事「キョウ」の内容が遡れるのは天明元年(1781年)以降であるが、近世初頭には成立していたと考えられている。この神事は宮座の独占的な性格と座の排他的な性格がそのまま受け継がれ、座衆以外に漏れることを避けて口伝によったため、「無言の神事」といわれている。
福島天満宮
JR福島駅からなにわ筋を南へ、国道2号線を越えて次の辻の西角にあり、祭神は菅原道真・大国主命・事代主命などを祀る。

この天満宮を俗に「上之天神」といい、このほか「中之天神」「下之天神」といわれる三社があったが、中之天神は太平洋戦争で、戦災にあい福島4丁目(大阪厚生年金病院入口南隣)にその跡があり、明治42年の北の大火のあと、翌年9月に同社を再建した時に立てた記念碑と石垣があるだけである。この三社の存立についてその昔、大阪を代表する天満天神の夏祭り「船渡御」を堂島川の下流で行われ、行宮の位置は天神橋下流から鉾流し神事によって、その鉾の流れ着いたところを行宮と定めていたので、これらの三社は、その時の行宮の跡とする説がある。
なお、下之天神は、中之天神と同じく菅原道真と少彦名命を祀って、玉川1丁目に天神社として残っている。
恵美須神社

「野田のえべっさん」で親しまれている恵美須神社が、いつごろ創建されたのかは不明であるが、境内には表面に「ゑみすのみや」側面に「永久3年(1115年)3月」と刻まれた御影石がある。石そのものは後世に建てられたものであるが、創建の時期はそのころと推測される。古来から「恵美須の大神」は漁業の神として祀られており、当時このあたりは、難波八十島と呼ばれ、漁業中心の地域であった。毎年1月の十日戎には多くの参拝客で賑わうが、夏祭には地車・太鼓・鯛鉾の巡行が行われるなど地元の氏神として信仰をあつめている。
浦江聖天(うらえしょうてん)

如意山、了徳院は「浦江の聖天さん」の通称で親しまれている。
江戸時代初め頃、浦江は一面の湿地帯でかきつばたの名所であった。境内に芭蕉の「杜若 語るも旅の ひとつ哉」の句碑がある。

文化財
ミナミ(株) ・・・ 国登録文化財 [建造物]
福島5-17-7
JR新福島駅近くの国道2号線に面したミナミ株式会社の建物は昭和9年(1934年)に建てられ、登録文化財になっています。
登録文化財とは築後50年を経て「国土の歴史的景観に寄与しているもの」について認定される文化財で、鉄筋2階・地下1階建てのミナミビルは、イオニア式の4本の円柱が取り付けられた正面が後方に緩やかなカーブを描き、奥行き感を出しています。
玄関の円弧状のひさしには彫刻が施されているほか、ビル内部の柱の頭にもコリント式飾りが見られ、華やかさを演出しています。
野田の藤跡 ・・・ 大阪市顕彰碑
野田阪神から新なにわ筋線沿いに南へ約500メートルに玉川南公園がある。その東に春日神社の祠があり、その境内に高さ約1.2メートルの「野田の藤跡」石碑が建てられている。
古来よりこの付近には藤が群生していた。貞治3年(1364年)室町幕府の2代将軍足利義詮が藤の花見におとずれて「いにしへの ゆかりを今も紫の ふじなみかかる野田の玉川」と詠んでいる。また、文禄3年(1594年)には太閤秀吉も曽呂利新左衛門を供にして藤の花見におとずれ、ここで茶会を開いたと言われている。江戸時代には一時期、野田藤も衰退するが、その後ふたたび゛吉野の桜"゛高雄の紅葉"と並び称されるほどの藤の名所となったようである。

野田藤の名の由来は、明治になって植物学者牧野富太郎博士により「ノダフジ」と命名されたことによる。一般のヤマフジは「つる」が左巻きなのに対し「ノダフジ」は右巻きなのが特徴である。
明治以後、野田藤は衰え、一時はほとんど絶滅したような状態であったが、福島ライオンズクラブが中心になって藤の再生運動を行い、昭和46年藤家に残っていた古木につぎ木を行い成功した。今では区内各所で春には野田藤を見ることができるようになり、「区の花」に指定されている。
野田城跡伝承地 ・・・ 大阪市顕彰碑
地下鉄千日前線「玉川」出口すぐに「野田城跡」の石碑が建てられている。石碑の左側面に「戦国時代、石山本願寺ついで織田信長の重要拠点となった字『城之内』と呼ばれたこの辺りがその中心である」と刻み込まれており、平成2年3月に大阪市が建立したものである。

野田城は享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されている。元亀元年(1570年)織田信長は、石山本願寺に攻め入り、この後10年にもおよぶ「石山の合戦」が始まるわけである。天正4年(1576年)石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦うが、織田軍の大軍にはかなわずに信長の手に落ちてしまう。天正6年(1578年)この城は、毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になるが、その後は歴史から忘れ去られ、現在ではその痕跡を見つけることはできない。明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されている。
羽間文庫(はざまぶんこ)

間重富(1756-1816)は江戸中期の天文・暦学者。麻田剛立(ごうりゅう)の塾で西洋の天文学・暦学を学び、幕府の改暦に功績があった。重富は、その子重新と天文観測機器の改良をはじめ観測データなど多くの資料・文献を残した。また、重富は大阪蘭学の発展にも寄与した。羽間文庫は、天体観測の記録や器機のほか、稿本、写本など貴重な資料を多数保管していたが、間重富(しげとみ)と重新(しげよし)の資料は、大阪市立博物館に寄贈された。
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