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区の概要・地名の由来・区のなりたち

2013年6月20日

ページ番号:224266

福島区の概要

北に新淀川、南は堂島川・安治川に面し、大阪市の西北部に位置しています。
区内に九つの駅を有し、市内中心部への、また、神戸方面への交通の要衝となっています。

・人口 (令和2年国勢調査)
総計:79,328人
男:37,633人
女:41,695人
世帯数:42,631世帯
1世帯数当たりの人員:1.86人

・面積 (令和2年国勢調査)
4.67平方キロメートル

・区の花 「のだふじ」
 「のだふじ」は豊かな房が特徴で、平成7年に区の花に制定されました。
 この「のだふじ」は、今から約600年前(南北朝時代)その美しさで知られ、「吉野の桜」「高雄の紅葉」とともに三大名所と言われ、野田の藤見物が盛んでした。
 江戸時代には、野田村の「藤之宮」と呼ばれた春日社(玉川2丁目)周辺が、藤の名所であったことは「摂津名所図会」に「野田藤春日の林中にあり 昔より紫藤名高くして」と紹介されています。

 

大阪市全図

 

地名の由来

福島
 平家物語の巻11によれば、元暦2年(1185)讃岐の屋島へ平家追討に向かう源義経が、2月16日当地を出航する記事に「渡辺・福島をいでて」とあり、鎌倉期以降この地に福島庄がひらかれていた。  

野田
 地名は、伝足利義詮著「住吉詣」の貞治3年(1364)の項に「それ(田蓑島)より南にあたりて野田の玉河と云所あり」とみえ、そのころ鷺島庄の一村であった。 

玉川
 往昔、この地に野田川の細流が、縦横にめぐり堂島川に注いでいた。この野田川は「玉川」とも呼ばれ、川沿いに名勝野田藤が咲き乱れていた。

吉野
 野田村の小字名で、大正14年まで西野田吉野町と称した。

大開
 野田村の小字名で、大正14年まで西野田大開町と称した。

海老江
 「大阪府全志」によれば、当地は古くは海中にあって海老洲と呼ばれたことによるという。「細川両家記」の元亀元年(1570)の記事に、織田信長がこの地を守る三好氏を討つため、中島天満ノ森に着陣した時、「先陣衆は敵近海老江堤田中に陣屋懸けられ候也」と記されている。

鷺洲
 海老洲と同様、古く砂洲状を成していた当地は鷺洲(さぎしま)と呼ばれていた。もと西成郡浦江村(現北区)の勝楽寺所蔵の大般若経裏書に「承久3年(1221)3月27日安置摂津国四天王寺御領西成郡鷺島荘浦江村勝楽寺」とある。

 

区のなりたち

 むかし大阪湾一帯には淀川の土砂が堆積してできた難波八十島があり、福島もそのひとつと考えられています。鎌倉時代には荘園がひらかれ、江戸時代に入ると安治川の開削や堂島川の浚渫(しゅんせつ)がすすめられ、新地が造成されました。

 「福島」の地名の由来は、菅原道真公が大宰府に流されるおり、この地に立ち寄ったときに名づけたと伝えられています。また、平家物語には元暦2年 (1185年)2月16日、源義経が平家追討ちに向かった時にこの地をおとずれており、「渡辺・福島をいでて‥‥」と書かれています。このあたり一帯は湿地帯で細い川が縦横無尽に流れ、川沿いにはフジ(のちに野田藤と命名される)の花が咲き乱れるフジの名所として有名であり、足利義詮将軍、豊臣秀吉らがフジ見物におとずれたことが記録されています。

 現在の福島区域は、明治22年(1889年)大阪市制の施行時と明治30年・大正14年の市域拡張により、大阪市域に編入されました。明治後期にできた新淀川は、当時の西淀川区の区域を南北に分けてしまいました。昭和18年4月1日、旧西淀川区の海老江・鷺洲と旧此花区の福島・野田地区に北区の一部が加わり福島区が誕生しました。

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