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022 近畿日本鉄道南大阪線(元大阪鉄道株式会社:通称大鉃)今昔

2023年11月20日

ページ番号:33078

 近畿日本鉄道南大阪線は、現在の近鉄の路線の中で最古の歴史を持つ区間です。

 明治29年(1896年)に河陽鉄道として河内柏原・道明寺・古市間を開業、当時国鉄と同じ幅の狭軌の軌道で相互に貨物を輸送していました。当初は汽車が牽引していました。

 3年後その事業を引き継いだ河南鉄道が、さらに河内柏原から河内長野に延長、当時の高野鉄道(現在の南海高野線と連絡、明治41年(1908年)には、ハンガリー製の蒸気動車(客車の一部に蒸気機関を設置)を投入、輸送効率の改善を図りました。

  • 大正8年(1919年)、社名を「大阪鉄道」に商号変更し、以後、「大鉃(だいてつ)」の愛称で呼ばれて来ました。大鉃の鉃の字は「お金を失う」と書くと縁起が悪いと、金(かね)偏に矢(や)の大鉃(だいてつ)と書いていました。
  • 大正11年(1922年)、道明寺-布忍(ぬのせ)間が、大正12年(1923年)4月には布忍-大阪天王寺(現大阪阿部野橋)間が複線、1500V直流電化で開通し、ついに念願の大都市大阪への進出を果たしました。同時に矢田・針中野駅が開業。同年12月には北田辺駅も開業しました。
  • 針中野の駅名は、平安時代から続く鍼灸院の中野家が駅の設置に貢献されたので針中野と命名されたとの事です。
  • 昭和4年(1929年)に古市-橿原神宮間開通し、大阪電気軌道(大軌)と連結して、大阪阿部野橋-吉野間直通運転を開始しました。
  • 今川駅は昭和6年(1931年)に開業し、当初は「駒川」と称していましたが、昭和8年(1933年)4月に今川と改称されました。
  • 昭和18年(1943年)に関西急行と合併、昭和19年(1944年)に戦時企業統合で近畿日本鉄道となりました。戦後企業統合が解かれた際、近畿日本鉄道に残り、南大阪線となりました。

昭和47年(1972年)10月の今川駅上り①


昭和47年(1972年)10月の今川駅上り②

令和4年(2022年)8月 今川駅前①
令和4年(2022年)8月 今川駅前②
令和4年(2022年)8月 針中野駅前①
令和4年(2022年)8月 針中野駅前②

 以前は、今川駅から針中野駅の区間は土手で、南海平野線の上を立体交差していました。
 現在は、阿部野橋駅から大和川まで高架になり、矢田・針中野は昭和51年(1976年)に、今川・北田辺は昭和62年(1987年)に開業しました。

 各駅前は商店街やスーパーがあり、特に針中野駅前は戦後、大阪の3大商店街の一つにまで発展した駒川商店街に隣接し、なんでも揃う、安い、買いやすいなどと藤井寺・河内松原などからの遠来の客も多く、年中にぎわっています。
 大鉃電車の開通当初、住宅はちらほらで見渡す限り、田畑だったので、「鍬やおけ」などの農機具を担いで乗車する人もみられました。
 大鉄電車は、戦前は勿論、戦後も暫らくの間、扉は手動でしたので、車掌さんの労力は大変なものでした。
 電車が駅に停車すると、車掌はプラットホームに降り、電車の一番前辺りまで走り、乗客の乗降が完了したのを確かめて合図の笛を吹き、発車準備完了を運転手に連絡します。すると、電車は徐行し始めます。(出入り口の扉は乗客が乗降時に閉めますが、全ての扉が閉まっているとは限りません。)

 車掌は後方に小走りしながら、まだ客が閉めていない扉を順次閉め、最後部の車掌室の入り口が自分の前を通過するときにすばやく飛び乗っていました。ですから、時には最後部の扉が閉まっていた(停発車時の反動で閉まるときがある)為、車掌は電車に乗ることが出来なかったり、また飛び乗るタイミングがずれて駅の端の木製の柵などに片足が引っ掛かって振り落とされたり等のハプニングで、電車は車掌を乗せないまま次の駅に行ってしまうこともありました。

 今なら、大変なニュースになったとおもいます。振り落とされてもあまり大きな怪我をしたということを聞かなかったのは、その頃の車掌さんは皆、運動神経が良かったからでしょうか。

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