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025 近畿日本鉄道南大阪線(元大阪鉄道株式会社:通称大鉄)今昔

2022年1月14日

ページ番号:33078

前身(明治時代)は河南鉄道と称し、河内柏原から河内長野の間を営業。関西本線(当時国鉄)と同じ幅の狭軌の軌道で相互に貨物を輸送していました。
当初は汽車も走っていたそうです。

昭和47年(1972年)9月の今川駅(その1)

  • 大正8年(1919年)、社名を「大阪鉄道」に変更
  • 大正11年(1922年)、道明寺-布忍間
  • 大正12年(1923年)4月、柏原―道明寺―大阪阿部野橋(当時は大阪天王寺)間が開通しました。(矢田、針中野駅開業。同年12月北田辺駅開業。当時から複線、1500V直流電化)
  • 昭和4年(1929年)に古市―橿原神宮間開通し、大阪電気軌道(大軌)と連結して、大阪阿部野橋―吉野間直通運転を開始しました。
  • 今川駅(最初、駒川駅と称していましたが、昭和8年(1933年)4月に改称)は、昭和6年(1931年)に開業しました。
  • 昭和18年(1943年)に関西急行と合併、戦時中の昭和19年(1944年)に企業統合で近畿日本鉄道となりました。

昭和47年(1972年)9月の今川駅(その2)

  • 以前は、今川駅から針中野駅の区間は土手で、南海平野線の上を立体交差していました。
  • 現在は、阿部野橋駅から大和川まで高架になり、(矢田・針中野は昭和51年(1976年)に、今川・北田辺は昭和62年(1987年)に)東住吉区内にある。各駅前は商店街やスーパーがあり、特に針中野駅前は大阪の3大商店街の一つの駒川商店街に隣接し、(なんでも揃う、値段が安い、買いやすい、などと)遠来の客も多く、年中賑わっていました。 開通当初、住宅はちらほらで一面の畑と田んぼだったので、「鍬やおけ」などの農機具を担いで乗車する人もみられました。
  • 大鉄電車は、戦前は勿論、戦後も暫らくの間、扉は手動でしたので、車掌さんの労力は大変なものでした。電車が駅に停車すると、車掌はプラットホームに降り、電車の一番前辺りまで走り、乗客の乗降が完了したのを確かめて合図の笛を吹き、発車準備完了を運転手に連絡します。すると、電車は徐行し始めます。(出入り口の扉は乗客が乗降時に閉めますが、全ての扉が閉まっているとは限りません。)車掌は後方に小走りしながら、まだ客が閉めていない扉を順次閉め、最後部の車掌室の入り口が自分の前を通過するときにすばやく飛び乗っていました。ですから、時には最後部の扉が閉まっていた(停発車時の反動で閉まるときがある)為、車掌は電車に乗ることが出来なかったり、また飛び乗るタイミングがずれて駅の端の木製の柵などに片足が引っ掛かって振り落とされたり等のハプニングで、電車は車掌を乗せないまま次の駅に行ってしまうこともありました。

今なら、大変なニュースになったとおもいます。振り落とされてもあまり大きな怪我をしたということを聞かなかったのは、その頃の車掌さんは皆、運動神経が良かったからでしょうか。

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