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027 百済の地名

2022年1月14日

ページ番号:33839

区内での百済の地名は、明治22年(1889年)に鷹合、砂子、湯谷島、中野の4ケ村が合併して、南百済村とされたことに因みます。

現在は南百済小学校や百済公園に百済大橋などにその地名が残るのみで、行政上での地名はなくなっています。


東住吉区に残る百済地名
上 百済大橋
下 南百済小学校

日本書紀(続)から、東住吉の百済との関係を探すと、

  1. 持統天皇7年(693年)紀1月条
    第31代百済王・義慈王は唐や新羅に攻められて、大和王朝に救援を依頼し、2人の皇子(豊璋と善光)を派遣した。
  2. 斉明天皇6年(660年)紀7月条、天智天皇2年(663年)紀8月条 
    百済(豊璋)に援軍を付け、百済遺臣・佐平鬼室福信に迎えられて遠征した(斉明6年紀)が、白村江で惨敗し、百済は滅亡し、豊璋は行方不明(天智2年紀)となる。
  3. 天智天皇3年(664年)紀3月条
    残された善光に難波(天王寺区堂ケ芝・百済寺跡と細工谷・百済尼寺跡)に住まわせる。
    以後、天武天皇、持統天皇の時期には百済王として優遇されており、百済人が善光を頼って続々と亡命してきたので、この一帯を百済と呼ばれるに至った。
  4. 聖武天皇(続)天平21年(749年)紀4月22日条
    善光の曾孫・敬福(キョウフク)は、大仏建立のために黄金900両を献上し、従5位陸奥守から従3位河内守に4階級も特進したが、一族の住む場所が次第に物流や交通の要所となるに及んで、天皇は敬福一族を枚方の地に移住を命じ、難波の百済は消滅する。
  5. 現在の百済王の末裔
    百済王家は平安末期に三松と改姓している(枚方市史、史上の人物、433頁)が、平安期に三松姓が現れていないので、この説は歴史学的には認められていない。 しかし、枚方市禁野1丁目に立派な三松家の墓地があり、百済王族末裔の墓であるとされている。 また、明治初期における砲術家や神官となった三松家の4人の経歴を枚方市史は百済王族の子孫と伝えている。枚方市の百済寺跡は廃墟となっているが、国指定の史跡である。

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