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033 桑津環濠(かんごう)集落

2022年1月14日

ページ番号:33846

中世の摂河泉一帯には、堺、平野をはじめとして、多くの環濠集落が成立していました。
環濠集落建設の目的は一般的に、(1) 軍事的警察的自衛 (2) 保水灌漑 (3) 洪水対策  の三つであるといわれています。
桑津の場合、(1)の軍事的警察的自衛手段として四周を水濠に囲まれ、竹薮で一部囲まれていました。(古老の話)。 外周の濠の東南部に2カ所、金蓮寺東側に2カ所、それぞれ少しづつ離れて濠が広くなって池となっていました。
外部に通じる道路としては北に2カ所、南に1カ所、西に1カ所の計4カ所だけで、現在でもその地名として桑津北口・桑津南口などが残っています。
桑津環濠(かんごう)集落の図 (桑津郷土史より引用)

これら入口には木戸が設けられ、夜間は閉ざされていました。
慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの頃、落武者が夜にやってきて、「おたのみ申す おたのみ申す」と木戸を叩いて救いを求めたが、村人は後難を恐れ灯を消して木戸を開けることは無かったそうです。
集落内の道路は、北口より南口へ見通しの出来ない程度の、ゆるいカーブのある直線道路が一本あるだけで、他は複雑な屈曲をみせています。
南北に通じる道路として、もう一本京善寺東側道路がありますが、最短で30米先がみえない屈曲、見通しの出来ない四辻が2カ所、三辻が2カ所あり、その他の道には袋小路、クランク形の曲り、L字形でカーブになっているなど、初めて来た者には分かりにくくなっています。
軍事的自衛手段としてもう一つ、環濠の南側に突出部があります。南口からの侵入者に対して横矢をかける目的でつくられたと思われます。
(2)の保水灌漑として集落内の排水溝と考えられる箇所として、西側の南北に通じる道路は現在も低くなっています。南北からの水が合流し東に流れ、一旦池に入ってから環濠に入り込んでいたようです。
(3)の洪水対策としては環濠集落東側に駒川・今川が流れ北上して平野川に入っていますが、桑津環濠集落は上町台地の東縁の緩傾斜地で外側とはっきりした段差が認められており、集落東側の川が氾濫しても集落内が浸水しにくくなっていました。

桑津環濠集落は昭和はじめ頃まで、およそ400年間続いていました。
今では、濠はうめられて道路に変わりましたが、細くて曲がりくねった道や、木戸口にまつられていた地蔵尊は今も残され、往時を偲ばせています
  

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