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034 駒川

2023年11月20日

ページ番号:33851

駒川

 大和川付替え反対陳情書に引用された「大和川開鑿地方図」によれば、駒川は狭山池の水を一時滞留させる轟池(堺市北野田)を源流とし、西除川に併行して北進する川と依羅池(注)を源流とする川が合流した水路で、古くは高麗川(巨摩川)と呼ばれていたことから、沿岸に百済や新羅からの渡来人が住み着いたことに由来すると言われています。
 現在の人工水源の近くに、鷹合神社があり、ここには日本書紀の応神天皇43年9月条があり、百済系渡来人の酒君に依羅屯倉阿弭子(ヨサミノミヤケアビコ)が献上した鷹の飼育を命じた伝承があるので、沿岸地域に「鷹合わせ=鷹狩」が得意な百済系渡来人が定着していたことが想定できます。
 また、架ける橋の名前も「百済大橋」「酒君塚橋」「鷹匠橋」「鷹合橋」があり、この伝承に因んだものと考えられます。
 水源の天野川や依羅池が大和川付替えの際に分断され、雨水の溜池となった依羅池の水によって細々と流れていた駒川は、昭和50年(1975年)頃の埋立てにより水源を失い、現在は今川と同様に大阪市平野下水処理場での砂濾過された高度処理水を受けて、人工的にその流れが維持されています。
 一級河川ですが、大阪市の工営所が管理を委託されているのは、今川と同様です。

(注)依羅池
 現在の住吉区庭井1にある大依羅神社(オオヨサミジンジャ)南側の狭山池に匹敵する広い池がありました。
 狭山池と同様に、天野川を源流とし、大変浅い遊水池(1-2m位)で、保有水量は狭山池より遙かに劣りますが、駒川の他に、長池や桃ヶ池を結ぶ長池筋(猫間川)や、西に向かう細江川の源流となっています。日本書紀の崇神天皇の62年10月条や、古事記(崇神記)にはその建造の記録があり、3世紀中頃の成立と思われますが、考古学的には5世紀中頃(允恭や安康天皇の頃)で、狭山池よりも150年速く開削された(「依網池付近の微地形と古代における池溝の開削」日下雅義)と考えられています。
 宝永2年(1705年)の大和川開削により、当時10万坪もあり、昭和大改修時の狭山池の面積に匹敵する大池の南2/3が川底や河川敷となり、北側の1/3の32、700坪が残されましたが、川が低い位置にあったので、水を引くことができず、雨水の溜め池となって、本来の水田用水池としての機能を次第に失っていきました。
 昭和50年(1975年)頃に最後に残っていた仁右衛門池も区民や阪南高校の運動場として埋め立てられ、依羅池は完全にその姿を失いました。
 

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