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035 駒川商店街

2023年11月20日

ページ番号:33852

(1)第2次世界大戦前の昭和10年代(1935年~1944年)
 大阪市の市街地拡大政策に伴って住宅が建ちはじめ、商店もぼつぼつ出はじめました。また昭和18年(1943年)4月には住吉区から分離し、東住吉区となりました。
(2)太平洋戦争とその直後の昭和20年代(1945年~1954年)
 大阪大空襲を免れた東住吉区に、市内の被災者が流入し、人口が急増しました。商店会も発展し、中野市場(昭和5年(1930年)設立)の発展に伴い鷹合商店会も設立され、戦後の発展期を迎えました。
 敗戦直後は闇市も加わり、不穏健な勢力争いが発生しましたが、物資が豊富に出回ってくると、闇市は姿を消し、健全な市場となり、駒川銀座商店会と駒川中商店会(昭和28年(1953年)4月)、針中野駅前商店会(昭和28年(1953年)5月)、センター駒川商店会(昭和28年(1953年)8月)、日之出商店会(昭和29年(1954年)5月)、駒川南商店会(昭和29年(1954年)10月)などが相次いで設立されました。
(3)昭和30年代(1955年~1964年)のスーパーマーケット進出期と駒川商店連合会の設立
 人口増加と近鉄針中野駅周辺を中心に商店数が増加しました。 また、市場の揺籃期には商店街の協力により、大型店(サカエ、銀ビル、ニチイ、イズミヤ、万代百貨店等)が続々と進出し、区外からの多数の買物客が針中野駅を乗降しました。当時は商店と大型店との関係はコバンサメの状態で、共存共栄が達成されました。

 昭和32年(1957年)6月には、北は南海平野線駒川駅から南は鷹合市場まで総延長1km余り、11の商店会を結ぶ「駒川商店連合会と駒川駅前商店街振興組合」が設立されました。 

 晴雨や四季の気象変化にも関わらず、常に購買客で満ちあふれる商店街を実現すべく、商店街を一貫する空調や放送施設完備のアーケードの建設が企画されました。


昭和38年の駒川商店街

(4)昭和40年(1965年)以降、今日に至る商店街の盛衰
 近鉄南大阪線と南海平野線沿線の買物客が加わって、東住吉区全域に限らず、南大阪一円の購買力を集約し、昭和40年(1965年)6月には駒川商店街振興組合が設立されました。
 しかし、近鉄沿線の大阪郊外にも衛星都市が発展し、各地で郊外型の超大型スーパーが続々と建設されるに至って、沿線の購買客は減少し始め、商店街の力も次第に弱ってきました。

 このような大型店の郊外化が進むと、ダイエー、サティー、いずみや等の既存のスーパーも相次いで撤退し、商店会員との共存共栄の関係がなくなり、時代の流れを痛感するところであります。
 地域密着型の商店街として、最近では店舗数も増え、様々な工夫をこらしています。


現在の駒川商店街

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