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045 常栄寺

2022年1月14日

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須牟地寺の礎石

(1) 須牟地(住道)廃寺の塔礎石
住道矢田4(矢田中より西へ230m矢田東小より南へ150m)の聚落の真中にある真宗大谷派の寺院で、境内の雨受けに利用されている石が、寺から北東310mにある須牟地廃寺の塔礎石として有名です。 
(2) 矢田小学校の発祥地
常栄寺は矢田小学校の発祥地として、大阪市の小学校教育史上有名です。 明治6年(1873年)2月にこの寺の本堂を教室として開校し、前身は「河州第33番小学校」と名付けられ、後に元円生病院があった住道矢田1-6付近に、住道小学校として新築されるまで3年間続けられました。 明治政府は明治5年(1872年)に新しく小学校の教育制度を発布し、「不就学者をなくすこと、教育を受けられない不幸な人を無くすこと」としましたが、当時のこの村の就学率は43%で、これでも全国平均の32.3%よりも高かったそうです。
(3) 寺の開基等の由緒
第18代住職の久世照護氏によれば、信長と石山本願寺との合戦に際して、この地域では、松原市我堂と長居公園付近に掘割を築き、一向宗門徒の砦となり、この辺りも激戦場となったと言われています。 この寺は合戦の翌年の天正9年(1581年)に浄土真宗の寺院として開基しましたが、徳川家康の政策により、本願寺が東西2派に分裂した時(1602年)に、教如(注)が率いる東本願寺に属しました。

(注) 本願寺の歴史と教如の動き
 親鸞の末娘覚信尼(カクシンニ)が文永9年(1272年)、親鸞の遺骨を京都東山大谷に建て、「大谷御影堂」と称したのが浄土真宗の興りです。
その後、親鸞の曽孫・覚如(カクニョ)がこれを「本願寺」と称し、第3世教祖と自称しました。 室町時代の第8世蓮如(レンニョ)の熱心な布教活動と末寺や門徒を巧妙に組織化し、大きく発展したが、武士の政治権力と対立する迄(一向一揆)に至りました。
第11世の顕如(ケンニョ)は織田信長と熾烈な戦いを展開し、いわゆる石山本願寺戦争は10年間も続きましたが、信長の死後の豊臣秀吉は本願寺に対し融和政策を採りました。 しかし、大衆の寄進で富みを築き、軍備を保有し(信長に最後まで楯突いた)長男・教如や、焼き物の鑑定で巨万の富を築く千利休に対して、秀吉は警戒していました。

(西本願寺の興り)
天正19年(1591年)秀吉は利休を自害させたが、顯如には京都堀川の土地を寄進し、これが現在の西本願寺となります。 しかし、その翌年に顕如が死去して、教如が12世を継ぐと、秀吉は教如を追放し、三男の准如(ジュンニョ)を12世とさせます。
ところが慶長5年(1600年)の「関が原合戦」に勝利した家康が政治の実権を握ると、慶長7年(1602年)に教如に烏丸七条の寺領を与え、これが現在の東本願寺となり、巨大な浄土真宗門徒は東と西に分裂し、対立します。
 これは巨大化する本願寺門徒の分断を意図した家康の策謀で、東西本願寺派寺院が隣接する例が多のは、その狙いがあってのことともいえます。

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