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061 南海鉄道平野線(廃線)の今昔

2019年1月18日

ページ番号:33877

大正2年(1913年)に阪南電気軌道が計画し、同年阪堺電気軌道に合併。大正3年(1914年)に阪堺電気軌道株式会社が今池・平野間に平野線を開業し、翌年に南海鉄道株式会社と合併し、南海電気鉄道平野線となりました。
昭和4年(1929年)には上町線と平面交差する阿倍野斎場前交差点で平野線から右折して、乗り換えせずに直接天王寺駅へ乗り入れられるようになりました。
第2次世界大戦中、昭和19年(1944年)の戦時企業統合政策で、関西急行鉄道と合併し、近畿日本鉄道平野線となり、戦後の昭和22年(1947年)に再び南海電気鉄道平野線となりました。昭和55年(1980年)、平野線の軌道の地下に市営地下鉄(現在の大阪メトロ)谷町線が開通したことに伴い、同年11月に平野線は(東住吉区内には、田辺、駒川、中野の三つの駅があり大変便利でしたが)営業を廃止しました。 現在、東住吉区内には大阪メトロ谷町線の田辺駅と駒川中野駅があります。 また平野線のもと軌道の上には阪神高速松原線が開通し、環状線方面駒川出入り口があります。

昭和55年(1980年)11月、南海鉄道平野線廃線の写真

昭和55年(1980年)11月廃線の写真

「ちんちん電車」のこと

昭和30年(1955年)頃までは、平野・中野駅間はほとんど家は無く、一面田んぼと畑でしたので、とても見通しがよく、約1,6km向こうの平野駅を出発する電車が、中野駅からよく見えました。 平野線は通称「ちんちん電車」として親しまれていました。 屋根にあるトロリーポールは、電車に電気を取り入れるために上下左右に動くポールの先にくるくる廻る車の付いたものです。この車の凹部をポールに付いたばねで軌道の上に張られた架線に押し付けて電気を取り入れながら走っていました。 しかし、平野線から天王寺駅前方面へ向かう電車は阿倍野斎場前で交差点を右折しなければならず、架線が交差している為、そのままでは走れません。 此処では、右折直前に車掌は窓から上半身を乗り出し(雨の日も、風の日も)親指を通す穴の開いた革のシートでポールの先に結わえられたロープを掴んで手繰り寄せ、ポールの先の車を架線から外します。 電車は一次的に停電しますが、惰力を使って右折を完了し、車掌はポールの先の車を天王寺方面の架線に移します。 たまには失敗し、ショートして強い閃光が走り、ドンと音がしてブレーカーが飛び再び停電します。(余談ですが、昔、阿倍野斎場あたりでは焼き場や墓があったので、夜には人魂が見えるとの噂がありました。) ポールをセットし終わると、車内に張られたロープ引いて運転手の横にある「かね」を鳴らし、作業完了を連絡していました。運転手は運転室の足元にある直径4~5センチの真ちゅう製の押しボタンを足で踏んで「チン」と鳴らし、(発車の)合図や周囲への注意喚起に使用していました。

南海鉄道平野線 昭和14年(1939年)頃の思い出

「ちんちん電車」の車掌さん、運転手さん

お年寄りが幼い孫を連れていたり、母親が幼い子どもらを連れて乗ると、車掌や運転手は乗り降りに自然と手を貸してくれました。 また、子どもが降りるのを忘れていたら声をかけてくれました。今のように際立って福祉の、介護の、ボランティアのとは言わず、自然に弱いものに手を差し伸べることができる、差し伸べてもらえる、安心のよき時代でした。

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