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080 山阪神社

2023年11月22日

ページ番号:33898

山阪神社

 山阪明神または田辺神社ともいわれていました。
 田辺氏は、元来、西国から移動した渡来系氏族で、現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、その分家がこの地に移住して、自らの祖先神を祀ったとされます。
 この地名・田辺も田辺氏に由来するとされています。
 神社創建の時期は不明ですが、主祭神は天穂日命(アマノホヒノミコト)(注1)で、野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)(注2)も祀っています。
 田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。
 三代実録(注3)の「清和帝貞観(ジョウガン)4年(862年)8月11日条田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されており、田辺西神は当社を、東神は中井神社を示すものとされています。
 元禄16年(1703年)の検地帳によれば、境内地は約30,000㎡にも及び、神社の本殿は前方後円墳の後円部に創建されているとみられています。
 現場をみると、前方部が西側の公園に当たる東西方向の前方後円墳に見えてきますが、埴輪や葺石という当時の墓制に特有な付属物が出土していないので、何とも言えません。
 土師氏が弓部の十六人を率い神功皇后に従い三韓に渡り偉功があり、凱旋後に摂津住吉神社創立と共に、この地に邸宅を賜り、梅園惟朝(ウメゾノコレトモ)と称しました。
 住吉松葉大記によると、大海(オオワダツミ)、大依羅(オオヨサミ)、開口(アグチ)、座摩(イカスリ)、生国魂(イククニタマ)の末社群の上位に位置されたので、当社が住吉大社により大変重視されていたと考えられます。
 住吉大社の神馬の飼育も田辺氏に任されていた理由もうなずけます。
 当社の祭儀もこの頃より梅園氏によって行なわれ、その同族にして配下の田辺宮主即ち禰宜長(ネギチョウ)ならびに舎人(トネリ)よりなる宮座によって奉仕されたのであります。
 9月朔日の例祭には、当社および田辺東ノ神(中井神社)の祭儀には梅園氏が親しく奉仕し、ことに禰宜長以下の宮座は当社に奉仕すると共に、住吉神社の神馬を飼養し日々住吉神社へ曳くを例とするようになり、当社の宮座は住吉神社との間に古くより特殊な交渉があったものと考えられます。

(注1)天穂日命
古事記の名称(天之菩卑能命)から判断すると、すべてに秀でた神様となります。出雲の国譲り(今で言う吸収合併)の交渉役に選ばれて、九州の本部(高天原)から派遣されたが、大国主命に心服して、3年間も服命しなかった人。当世向きの平和主義の神様と言えます。

(注2)野見宿禰命
日本書紀の垂仁天皇7年秋7月条に書かれている人で、当麻蹶速(タイマノケハヤ)が相手の生死を問わず荒っぽい相撲振りを誇示したので、天皇が全国から対向者を募り、出雲から野見宿弥が召喚されて対戦し、蹶速を蹴り殺してしまう。野見宿弥は褒美として当麻蹶速の土地を戴き、当麻に留まる。御陵建設等の技術集団である土師氏は、彼を始祖としている。菅原道真も土師氏の末裔です。

(注3)日本三代実録
清和、陽成、光孝の3代天皇の時期に関する国史書です。
天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を記録しています。
編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平で、延喜元年(901年)に撰上されたが、時すでに律令制度が崩壊し、天皇家にとって懐古的な歴史書となった六国史の最後の国史書です。

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