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091 平野白鷺公園

2023年11月22日

ページ番号:491565

所在地番:東住吉区今川6丁目7番地,8番地

アクセス:大阪シティバス白鷺公園前下車東200m(系統 5,6,73)、近鉄南大阪線下車東へ700m、地下鉄谷町線駒川中野駅下車平野方向へ東0.7km中野中学東北角を左へ0.5km

面  積:37,065㎡

公園の由来:平野白鷺公園は平野土地区画整理組合の区画整理事業により公園用地として留保し、大阪市に提供した土地の中から市が設置したものです。

 

平野白鷺公園の写真①
平野白鷺公園の写真②
平野白鷺公園のジョギングコース案内板
平野白鷺公園グラウンド

 

  • 所属行政区の変遷
    設置時期
    昭和14年(1939年)4月1日開園。 開園当初は、住吉区に属していました。
    昭和18年(1943年)住吉区から阿倍野区・東住吉区が分区し、東住吉区に属しました。
    昭和25年(1950年)長居公園(種類:運動公園)が東住吉区に設置されました。
    それまで東住吉区には児童公園(酒君塚・駒川・中野・鷹合)は存在したが、白鷺公園は普通公園として唯一、しかも区内最大の公園でした。
    昭和49年(1974年)東住吉区から平野区が分区したが、白鷺公園は東住吉区に属しました。

  • 現在の公園の状況 令和元年(2019年)12月
    公園のほぼ中央を南北に貫く巾8mの道路で、東園と西園の二つに分割されています。
    西園にはグランド2面・ベンチ・夜間照明設備がある。東園には中央に児童遊園地として、ブランコ大小・コンクリートの小山・砂場・雲梯・梯子等が設置され、そのまわりを、イベント会場・ゲートボール場・六つのブロックに分けて各地区の小学生が楠の植樹・管理を担当して来た“子どもの森”が取り囲む。更にその外側に、一周387mジョギングコースが設けられています。
     楠樹林の1部は櫻樹林に替っているが、その他の空き地には、公孫樹(イチョウ)・プラタナス・栴檀(センダン)・もくこくその他種々の樹木が植えられ花壇もあります。その他 飲水場・トイレ・公衆電話ボックス・ベンチ・あずまや・夜間照明・阪神震災鎮魂植樹碑など。当初の記録にあった国旗掲揚台・藤棚は現在見あたりません。

  • 公園の周辺・設置当時の状況・風景
     白鷺公園は、町会の運動会、ラジオ体操等地域の行事に大いに使われ、その頃の区民の生活に溶け込んでいました。防空の訓練にも使われました。白鷺公園が開園した昭和14年(1939年)頃のこの地区の様子は、今川の漆堤から東は大念仏寺まで、1Km余り見渡す限り水田でした。水田には、毎朝、白鷺(仁徳天皇陵などに生息する)が飛来して、餌を啄み、夕方には、数羽ずつが、雁行をなして、つぎつぎと南西の方向に帰っていきました。
     その光景は、昭和30年(1955年)頃まで見られた懐かしい長閑(のどか)な情景でした。今はごく稀に1~2羽の白鷺が、川の小魚を獲りに来るのでしょうか、飛び立つのを見かけることがあります。
     戦時中は食糧難から、カルシウムの補給源としてイナゴ取りをしました。イナゴは網や手で捕獲すると、腹から背にむかって針で糸を通し、持ち帰って暫く干してから、焼いて粉にしたり佃煮にして食しました。意外と美味しかったように思います。
     当時、今川(漆堤)の西側は既に宅地化が進んでいましたが、東側は水田地帯であったから、春には見渡す限りピンクの蓮華草(レンゲ)の絨毯となりました。堤は、絶好の凧上げ場所で、西風を背に受けて、いくらでも糸を伸ばして空高く揚げられました。休日には、子どもも大人も一緒になって凧上げに夢中になりました。
    夏には、やんま、塩辛とんぼを追い、昼は蝉の声、夜には食用ガエル(別名牛ガエル)の声(牛に似た声)が響き渡る。秋には蟋蟀(コオロギ)、鈴虫の声、漆堤の紅葉など季節感満点の場所でありました。
    白鷺公園はこの様な野原のド真ん中にあって、大人・子ども・家族、皆が安心して寛げる場所でした。
    ただ、日が暮れると、真っ暗で、「追い剥ぎが出る」と言われる物騒な場所でもありました。

 

余談ですが、その頃の田畑には野壺(人糞を肥料として溜めておく穴)が各所の田畑の角や縁にあり、子供が凧上げに夢中になって、野壺にはまる事故があるので、大人も注意する必要がありました。

 

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