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東淀川区の名所・旧跡

2021年1月21日

ページ番号:294550

東淀川区内の名所・旧跡などをご案内します

一柳家の土塀と道標(いちりゅうけのどべいとみちしるべ)

菅原1-16-3

 一柳家の先祖は、中島大水道の開削にあたり、その実現に苦労を重ねた責任者の一人でした。現在残る土塀には当時の瓦がぬりこめられており、続く四脚門は民家には珍しく共に風情をそえています。また、天保7年建立の亀岡街道と瑞光寺への道標があります。

旧亀岡街道

菅原


大阪から吹田を経由し、北摂山地を通って丹波の亀岡市に至る街道で、古くは亀山街道とよばれていました。そのルートは、まず高麗橋東詰から、天神橋、天神橋筋、長柄、中津川に架かる豊崎橋。そこから、東淀川区内の旧町名である柴島・新家(しんけ)・下新庄・上新庄を経由しています。次いで吹田渡から吹田を経て亀岡に達します。
当時、北摂山地東部や丹波地方から年貢米・酒造米・青果物・薪炭・寒天などが牛馬によって輸送されていて、牛馬や人の往来で賑わっていました。
現在は、東淀川区内の地形などが大きく変貌を遂げ、街道が消滅しているところもありますが、新たに道標が設置されています。菅原・下新庄などで古い道標や、家並み、坂道そして石畳の道、またゆるやかなカーブを描く道など、かつての面影を想わせる街道を見ることができます。

柴島城址(くにじまじょうし)

柴島2-19

 十河一政(そごう かずまさ)という武将が築城したそうで、天文18年(1549年)の3月、三好長慶(みよし ちょうけい)が軍勢を引き連れて中島に向かうのを防ごうと、細川晴賢や三好宗三の手兵がこの城を拠点に戦ったが落城、また元和3年(1617年)から6年間、知将稲葉紀通(いなば のりみち)が居城し、現在の柴島から南江口までの淀川べりを治めていたといわれています。柴島城は、大阪夏の陣までは続いたといわれていますが、いつ廃城になったかは不明です。
 柴島2丁目の閑寂な住宅街の一角に「柴島城址」の碑が建てられています。付近には当時の面影は残っていませんが、いにしえの武将の夢に思いをはせながら、散歩してみてはいかがでしょうか。

柴島浄水場(くにじまじょうすいじょう)

柴島1-3-14

 大阪市では、明治28年11月に「桜の宮水源地」が創設され、水道事業がはじまりましたが、その後の拡張事業により、吹田、枚方など数カ所の案のなかから幾多の曲折を経た後、柴島に水源地の建設が計画されました。そして、当時東洋一といわれた「柴島水源地」が大正3年3月に完成しました。その規模は、給水能力(一日に最大送り出すことのできる水量)15万1800立方メートルでした。
 市勢の伸展と市域の拡大、人口の増加に伴う水道需要に対応するため9回におよぶ水道拡張事業が行われ、緩速ろ過法から急速ろ過法への転換や水質悪化に伴う浄水処理の変更など、量的拡張から質的向上まで対応する取水・浄水・配水設備などの改良増設事業が繰り返し行われてきました。
 現在は、給水能力118万立方メートル/日にまで発展し、敷地面積46万平方メートルのなかには配水池やポンプ場、高度浄水処理棟などの設備が配置されています。配水池上部の有効利用として、市民の方に利用いただける屋外テニスコート施設(くにじまテニスコート)なども建設されました。また現在は、従来の凝集沈でん・急速ろ過処理にオゾン処理および粒状活性炭処理を追加した、より安全で良質な水をお届けするために「高度浄水処理」を実施しています。
 隣接する水道記念館の美しい建物や目に鮮やかな広い芝生地帯に、休むことなく安全で良質な水を送り続けてきた水道の歴史が刻まれています。

水道記念館

柴島1丁目3-1


 柴島浄水場にある水道記念館の建物は、明治・大正期の名建築家宗兵蔵(そうへいぞう)の設計によるもので、1914年(大正3年)に建てられました。
 明治から大正にかけて、大阪市の発展と近代都市の確立をめざし、市勢の急進を支える水道事業として柴島に水源地が新設されました。1914年3月、東洋一と称された柴島浄水場が誕生し、その「送水ポンプ場」の建物として建てられたものです。同年3月21日、「送水ポンプ場」付近で盛大な竣工式が行われたと当時の新聞が伝えています。以来、大阪市水道の主力ポンプ場として活躍し、市民の皆さんに安全で良質な水を送り続けるという重要な役割を果たしてきました。そして、1986年(昭和61年)に新しいポンプ場が完成したことによりその役目を終え、1995年(平成7年)に水道記念館として展示施設となりました。現存する大阪市の水道施設のなかでは最も古く、水道の歴史を物語るものとして市水道のシンボル的存在となっています。
 時を刻み、深みをます赤レンガと御影石の調和した美しい外観をもち、建物正面の優美なアーチ、浄水場の芝生の緑に映えるこの建物は、市民共有の歴史的財産として現存する明治、大正建築として貴重なものです。

逆巻の地蔵尊(さかまきのじぞうそん)

大桐5-4

 「逆巻地蔵」は、弘化3年(1846年)、豊里大橋付近の阪巻村(現在は淀川の川底になった場所)に建立されました。この場所は水流が激しく、帆を逆に巻かなければ転覆することから「逆巻の難所」と名付け、恐れられていました。幾度も船が難破し、数多くの犠牲者が出たため、慰霊と船便の安全守護を祈願して、この地蔵が建てられました。
 明治31年(1898年)、淀川改修のころ、観仏寺の住職が、緋の衣を着た僧を背負って観仏寺に着いたところ、僧が地蔵に変わっていたという夢を見て、きっと工事で動かされる地蔵がここにいたいと夢告されたのだろうと考え、観仏寺が引き取り安置しました。このとき、地蔵の下から犠牲者の戒名を書いた石が、80近くも出てきたそうです。
 その後、大正12年(1923年)、住職の娘さんが地蔵が表通りに出たいと訴える夢を見て、現在の場所に安置されたといわれています。
 六角の台石に座る蓮台をいれて1.6メートルもある大きな地蔵で、太く垂れた眉、小さい顔は、満面に慈悲をたたえています。

三千樋(さんぜんひ)

南江口3丁目

 淀川には数多くの樋門がありました。かつて、田畑をうるおすために中津川から用水を引いていましたが、淀川の改修工事に伴い樋門が取り除かれ、用水を引くことができなくなりました。また、神崎川も改修によって、川の水が涸渇し、取水ができなくなりました。
 明治30年11月、大道村ほか13か村により、用水を引くために普通水利組合が設立され、淀川が東から流れ、南に向かって流れていく地点である大道村大字北大道(現在の南江口3丁目)に三千樋が設けられました。
 三千樋が設けられたことにより、大道村・小松村を通り、国次町北より三国町・十八條町・新高町・加島町(淀川区)を経て、大和田町(西淀川区)の北に達する本流と、大道町より豊里町字能條を経て、淀川右岸堤防に沿い豊里菅原町・南方・十三を経て塚本に至る支流を持つ、用水引用の大水路ができました。本流と支流の総延長は、14,236間(約26キロメートル)余りにおよび、三千樋は淀川右岸の田畑1,800町歩(約18平方キロメートル)をうるおす唯一の樋門となりました。
 (本流水路は、大正6年10月、下新庄で神崎川堤防が決潰したため、瑞光寺前より西へ引江まで一直線に変更されました。)

中島大水道新太郎松樋(なかじまだいすいどうしんたろうまつひ)

西淡路5丁目1

 江戸時代、北中島一帯は一万数千石の米を生産する農村でした。しかし、低湿地で土砂堆積による洪水がひどく、河川の氾濫は淀川治水工事によって防ぐことができましたが、田畑にあふれた雨水などは排除できず、村民は幕府に排水路の設置を何度も訴えました。
 しかし許可はおりず、延宝元年(1673年)、たまりかねた一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が先頭に立って、排水路を設けてほしいと幕府に強く訴えました。延宝5年(1677年)、ようやく幕府は「工事に関する費用は、すべて百姓が負担する」という条件をつけて、排水路の設置を許可します。しかし、延宝年間は悪水で不作に苦しんでいたため、「せめて多少の補助を」と嘆願すると、感情を害した幕府は許可を取り消してしまいました。ついに耐えられなくなった三庄屋は、延宝6年(1678年)3月11日、新太郎松樋を水路の拠点として、無許可のまま工事を強行しました。村民たちは老若男女を問わず工事に参加し、昼夜の別なく働いて、福村吐口樋までの5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90センチメートル)の水路を28日間で完成させました(約50日間で完成させたという説もあります)。
 許可を得ず強行した三庄屋に幕府は怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、三庄屋は同年4月9日、西村の細目木(さいのき:現在の淀川区西中島7丁目)付近で、江戸の方角を向き、抗議の自決をしました。村民たちはこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視できず、2年間をかけて補助金も出し、中島大水道を完成させました。
 現在の東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り、大阪湾に直結した大水路は埋め立てられてしまいましたが、西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が建てられています。


東淀川区役所3階には、ライオンズクラブ様より寄贈いただいた中島大水道復元模型を設置しています。

平田の渡し跡(へいたのわたしあと)

豊里3丁目

 平田の渡しは、延宝4年(1676年)ごろ西成郡豊里村と東成郡古市村を結ぶ個人経営の渡しとして発足。明治30年ごろの新淀川開削工事により豊里村が分断され、その後、豊里村内の飛地を結ぶ(現在の東淀川区豊里3丁目付近~旭区太子橋1丁目付近)渡船として存続し、大正14年には大阪市営となりました。最盛期には、1日約3000人の乗客と670台の自転車を運ぶ重要な交通機関の役割を果たしていましたが、昭和45年の豊里大橋開通とともに300年の歴史を閉じました。

行友家の楠(ゆきともけのくすのき)

菅原1丁目12-18

 高さ22m、幹回り約4.4m
 保存樹指定 大阪市指定番号 第6号
 指定年月 昭和43(1968)年10月1日
 人家の少ない昔は遠くから目印にもなったといわれていた。

乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと)

大桐5丁目 大桐中学校前道路


 古代律令制時代以来、典薬寮(てんやくりょう:朝廷で医薬を取り扱っていた官省)に所属していた牛牧「味原牧(あじふのまき)」がありました。「味原牧」は、摂津市の味原(あじふ)の地から淀川が分流する江口の下流部(現在の南江口・大桐・大道南あたり)に分布していたといわれ、乳牛を飼育していたことから「乳牛牧」と呼ばれていました。
 牛牧の住民は牛を飼育して、牛乳や蘇(そ:牛乳を煮つめて濃くしたもの)、酪(らく:牛乳を精煉した飲料、それから作るチーズなど)を製造するとともに、毎年、母牛と子牛を典薬寮の乳牛院に送ることが義務づけられていました。そのため、一般の所役や雑役を免除され、その特権を活かして次第に田畑を開拓し、その田畑は年貢課役が免除されたため、中世には牧の中に田畑が広がり荘園(私有地)化していきました。
 室町時代には一般の荘園と同様に支配され、やがて摂津守護の支配となり典薬寮の所属から離れました。嘉吉(かきつ)2年(1442年)、摂津守護であった細川持賢(ほそかわもちかた)によって崇禅寺に寄進され、寺領となりました。このことは、平成15年度に大阪市指定文化財に指定された崇禅寺文書(そうぜんじもんじょ)のうちの1つ「細川持賢寄進状」に記されています(公開はされていません)。
 現在の大隅東・西小学校は、大正15年(1926年)に改称する以前は「乳牛牧尋常小学校」と称していました。これは『日本書紀』安閑(あんかん)天皇2年9月条に「牛を難波大隅島と媛島松原に放つ」と記されていること、この付近に乳牛牧があったことにちなむといわれています。大桐5丁目には、乳牛牧跡の碑が建てられています。

摂津県・豊崎県県庁所在地跡

東淀川区東中島5丁目27番 崇禅寺内


 大阪府の起源は明治元年で、翌明治2年1月20日、大阪府の一部を割いて摂津県がおかれ、摂津の国八郡(住吉・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢・川辺)を管轄していました。その仮庁舎として崇禅寺の建物の一つがあてられたとされています。明治2年5月に豊崎県と改名されたが、その後も区域の変更が繰り返されました。

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