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神社・仏閣

2021年1月21日

ページ番号:473870

東淀川区内の神社・仏閣をご案内します

井高野

大隅神社御旅所(おおすみじんじゃおたびしょ)

井高野2-4-38

 井高野御旅所は、井高野昔時会の協力により境内整備を行いました。平常は、参拝者の外に、木陰で憩う人等の格好の場所となっています。
 瑞光御旅所は瑞光寺境内にあり同寺より敷地の寄贈をうけました。

南江口

江口の君堂(えぐちのきみどう)(寂光寺:じゃっこうじ)


 そのむかし、仁安2年(1167年)の秋、歌人西行法師が天王寺へ参詣する途中、江口の里であいにくの時雨にあい、一軒の粗末な里家で雨宿りを乞うたのです。しかし、女家主の遊女妙(たえ)はその申し出を拒みました。そこで、西行が「世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな」と歌を詠むと、「世をいとふ人としきけば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と見事に返歌しました。その即興の歌が縁となって後に妙は仏門に入り、余生を人びとの相談ごとにあてたそうです。
 妙(光相比丘尼:こうそうびくに)の亡き後、江口の人びとが、冥福を祈って建てたのが、江口の君堂だといわれています。
 光相比丘尼が普賢菩薩の化身だったということから、明治のころには子宝に恵まれるよう祈願に来られる方も多かったそうです。現在でも、境内には手入れのいきとどいた約40種類の樹木が繁り、そのひっそりとした佇まいは、都会の喧騒を忘れ、静かな心にさせられます。

教徳寺(きょうとくじ)


 浄土真宗本願寺派、本尊は、阿弥陀如来。寛文10年(1670)創建とされています。
 清涼山と号し、本願寺寂如法主の弟子となった教徳が創建したものです。今の堂舎は弘化2年(1845)に檀家の協力により再建したものとされています。

光照寺(こうしょうじ)


 明応(めいおう)4年(1495年)、蓮如上人(れんにょしょうにん)の法統を受け継ぐ第9世実如(じつにょ)上人の直弟慶空師(けいくうし)の創創とされています。
 光照寺の山号「旅栖山(りょせいざん)」の由来は、平安時代の末期、西行法師(さいぎょうほうし)が天王寺を参詣する際、この地にあった草庵で一夜の宿をとり、庵号がないのを知って、「旅栖庵(旅のすみかの庵)」と名づけたと伝えられている。また、寺号である「光照寺」は、本願寺第8世蓮如上人が畿内を教化された折、旅栖庵にも立ち寄り、庵号を「旅栖山光照寺」と名づけたのが始まりといわれています。


 明応4年(1495)創建と伝えられる。山号「旅栖山(りょせいざん)」の由来は、平安末期西行法師が天王寺へ参詣のとき、ここの草庵に一夜の宿をとられ「旅栖庵」と名づけたいう。その後これに因み、室町時代に入り蓮如上人により山号となった。

光明寺(こうみょうじ)


 寛文2年(1662)本山(東本願寺)法主、琢如上人に帰依した宗栄が、宗祖親鸞上人の教えを世間に広めようと、聞法(もんぽう)道場である坊舎を建立したのが最初といわれています。
 本尊は、阿弥陀如来。
 
*平成2年秋改築。

小松

向稱寺(こうしょうじ)


 享保の初め(1720ごろ)の創建。明和5年(1768)火災により焼失しましたが、20年後の寛政元年に再建し、現在に至っています。
 かつて境内地は梅林で名高く、山号も「梅渓山」と称していましたが、今日の山号は「浄光山」となっています。

涙池山瑞松寺(るいちざんずいしょうじ)


 楠正成の末えいといわれる明道和尚が建立した浄土真宗本願寺派のお寺(創建は1581年)で、山号の涙池山は鎌倉時代、源氏との合戦に敗れた平景清(たいらの かげきよ)がかくまってもらっている伯父の大日坊(だいにちぼう)をあやまった殺した白刃を涙ながらに洗った池(現在の小松公園)が近くにあった事から由来しています。
 また、この寺では昭和初期まで、全国的に名の知れた“狸の吸い出し薬”を売っていました。説話によると、江戸時代、村人に追われた狸がこの寺に逃げ込んできたのを住職がかくまってやったところ、お礼にと皮膚病を治す薬の処方を教えられました。これが“狸の吸い出し薬”と呼ばれて大評判となり、遠方からも買いに来られたといわれています。

※本堂は宝暦9年(1759)再建、鐘楼は寛政4年(1792)
※狸の吸出し薬…皮膚病を治す薬

専念寺(せんねんじ)


 北区同心の天満東寺町にある同名の浄土宗寺院、専念寺の三世諦誉雲渓(ていようんけい)によって、隠居所として寛永20年(1643年)に建立されたと伝えられています。
 恵心僧都(えしんそうず)作といわれる阿弥陀如来座像を本尊とし、三宝寺の旧仏と伝えられている木造大日如来座像と木造十一面観音菩薩立像が祀られています。
大日如来座像には説話が伝わっており、元和(げんな)年間(1615~24年)から寛永年間(1624~44年)の頃、小松村に綿で財を残した屏風屋勘左衛門(びょうぶやかんざえもん)という豪商がいました。勘左衛門はこのあたりを開墾し、土地のほとんどは彼のものでした。村人から妬まれた結果、キリシタンだと流布され、それが役人の耳に入り勘左衛門は処刑されてしまいました。果たして翌年から凶作が続き、その後勘左衛門の家の屋根裏からこの大日如来座像が発見され勘左衛門がキリシタンではなかったことがわかりました。村人たちは後悔して非を詫び、この仏像を専念寺に祀ると、翌年から再び綿作は盛んとなり小松村は栄えていったといわれています。
この説話に登場する勘左衛門とその妻と伝えられる二躯の肖像と位牌も専念寺に伝来しています。
 現在、専念寺の美しい境内の本堂右に如来堂があり、「開運大日如来」の掲額が掛かっています。本堂はコンクリート造りで、本尊の阿弥陀如来座像が柔和な面相で安置されています。ほかに伝教太師作の聖徳太子の仏像もあります。
 当地は江戸時代綿作が盛んで、豪農も育ちましたが、そのうち屏風屋勘左衛門一家の哀話が伝わり、夫妻の像も安置されています。

善隆寺(ぜんりゅうじ)


 当山は、善照院日薩(善隆)上人開基で、上人の名を由来とされています。
 現在の本堂は、鉄骨コンクリートの手作りで、昭和60年に完成し、堂内には千人力鬼子母神が奉安されています。信者により毛髪を賜り、霊験あらたかな尊神様であられます。

松山神社(まつやまじんじゃ)


 延喜元年(901年)、菅原道真が太宰府に流罪になる途中この地に立ち寄り、数千株の小松の茂る景観に感動し、「小松の詩」を吟じ直筆の御真像を与えました。道真亡き後、村民たちが社祠を構えてお祀りしたのが松山神社の起こりだといわれます。明治42年に大隅神社に合祀されますが、昭和19年に地元の復帰運動が実り神社を再建し、小松の氏神として現在に至っています。
 境内には180本近い梅が植樹されており、2月下旬から3月中旬までの間、梅まつりが開催され、早朝よりたくさんの方が訪れます。社殿をバックに写真を撮る方、甘い香りや清楚な花を愛でる方など、皆さんそれぞれのスタイルで早春の風情を楽しまれます。また、2月下旬の梅花祭では、早乙女による献供行列も行われます。

瑞光

瑞光寺・雪鯨橋(ずいこうじ・せつげいきょう)


 聖徳太子の創建と伝えられ、三寶寺(さんぽうじ)の全盛時代に堂宇(どうう)のひとつに属した臨済宗の禅寺でしたが、建武年間(1334~1336年)の頃、火災に遭い建物が焼失しました。その後、寛永20年(1643年)に伊予の国の天然(てんねん)という臨済宗の僧がこの地に入り、観世音菩薩を本尊に白隠(はくいん)禅師を座主に迎え、指月寺(しげつじ)と名づけて復興しました。享保14年(1729年)、天然を継いだ2世住職北禅(ほくぜん)のとき、寺号を天然山瑞光寺と改め、それからは盛運をたどり、10世住職海印(かいいん)の頃には、本堂、書院、指月庵など境内1万坪の大寺院に発展しました。しかし、昭和20年(1945年)6月の大空襲で本尊の十一面観音を除いて、豪華な堂塔伽藍から寺宝一切を失いました。その後、昭和59年(1984年)に再建され現在に至っています。 
 境内にある「弘済池(こうさいち)」には、ひときわ目を引く橋が架かっています。この橋は、全国にもここだけと思われる、鯨の骨でできた「雪鯨橋(せつげいきょう)」です。4世住職潭住(たんじゅう)が、宝暦6年(1756年)に南紀を行脚しているとき、太地浦(現在の和歌山県太地町)の漁師に不漁であったことから豊漁の祈念を請われました。潭住は「殺生は五戒の一つ」として断りましたが、ついに祈願に応じました。鯨がたくさん捕れたお礼として、30両と鯨骨18本が贈られましたが、潭住は鯨を供養し、すべての生き物を大切にするという祈りを込めて、この橋が作られたといわれています。令和元年5月に架け替えられた現在の橋は7代目の橋です。宝暦、文政、明治、大正、昭和、平成そして令和に架け替えが行われたこの珍しい橋を身近に見ることができるのはうれしいことです。

明浄寺(みょうじょうじ)


 日蓮宗の寺院。昭和6年、大阪市北区に布教所として開設されました。その後、昭和16年(1931)当地へ移転、昭和24年、宗教法人の寺号を受け現在に至ります。
 「新庄の妙見さん」として広く知られています。

※平成8年1月改築。

大桐

圓乗寺(えんじょうじ)


 浄土真宗本願寺派(西本願寺)、本尊 阿弥陀如来。
 創建は文明13年(1481)摂津国西成郡北大道村の圓乗(蓮如の直弟子)が布教したのが最初とされています。天保11年(1840)本堂再建、平成元年には、本堂大修復および山門が再建されました。

大隅神社(おおすみじんじゃ)


 氏地は広く、元の大隅島で後の西成郡中島・大道の両村の範囲になります。1700年ほど前、この大隅島に離宮を営んでおられた応神(おうじん)天皇(大隅宮:おおすみのみや)が崩御の後、里人が帝の御徳を慕い宮址に神祠(やしろ)を建立したのが起源とされています。
 ある年に淀川が氾濫し賀茂(かもの)明神の御神体が漂着して霊光を放ち、里人はこれを迎えて産土神(うぶすなのかみ)に合祀し、社名を賀茂神祠と改め社殿を2つに分けました。3,000坪以上の境内には杉や松が繁り、社殿も壮麗でしたが、明治初年に周囲を民有地に払い下げました。そして、応神天皇を主祭神とし、名も大隅神社と改められました。境内に狛犬や灯籠が多いのは、稲生(いなう)神社などを合祀したからです。
 大隅神社は氏地が広いために、御祭神がお泊まりになる御旅所が、井高野と瑞光寺境内にあります。また、本殿では初詣・成人祭・節分・春秋大祭・七五三詣・年2回の大祓(おおはらい)の行事があります。

西福寺(さいふくじ)


 真宗大谷派に属し、開基は順教と称す。創建の時代ははっきりしていません。文明年間中、蓮如上人の法話聴聞の道場として創建されたといわれています。元禄15年(1702)に寺号を本山より受けましたが、享和元年(1801)に、この地が大火のとき堂舎類焼に係って、寺記ことごとく焼失しました。

西宝寺(さいほうじ)


 三縁山と称し、開基は圓秀、享禄2年(1529)證如(しょうにょ)上人の直弟となり当寺を創建しました。元禄9年(1696)堂舎焼失、宝永5年(1708)再建されました。本尊は阿弥陀仏で有名な渡辺康雲の作と伝えられています。

大澤寺(だいたくじ)


 正保(しょうほう)3年(1646年)に僧宗純(そうじゅん)が創建しました。宗純は当地の名家であった沢田家の出身で、俗名は沢田太郎左衛門といい、大坂本覚寺の日達上人(にったつしょうにん)に帰依(きえ)し、独力で法華宗の寺を建立しました。
 大坂夏の陣で、付近の中島(東淀川区域)の多くの人々が豊臣方に味方するなか、酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)と親しかった太郎左衛門は徳川方に味方し、その恩賞として淀川沿いの16カ所の渡船の権利を受け、12代当主の義浄から沢田左平太を通称として用い、延宝(えんぽう)4年(1676年)には堂島川や木津川の渡船の特権も得るなど、大変な富豪になりました。豊里3丁目にあった平田の渡しも、このうちの一つです。
 沢田家の当主は円満な人格者が多く、学問や芸術に優れた人もいます。特に、17代当主の沢田義文は淇園(きえん)と号し、土佐派の絵画も堪能な文人でした。また、中島大水道の設置の際、力を尽くした三庄屋の一人、沢田久左衛門も沢田家一族の一人です。
 沢田家の菩提寺として受け継がれてきた大澤寺は、山号を円光山(えんこうざん)と号し、本堂には本尊の題目宝塔(だいもくほうとう)を中心に、釈迦多宝二仏像(しゃかたほうにぶつぞう)などが残されています。広大な境内は明治維新後に減りましたが、現在は本堂、庫裏(くり)および鐘堂があり、のどかな田園風景の中に存在していた当時がしのばれます。

等覚寺(とうかくじ)


 延宝年間(1673~80)創立、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。
 嘉永5年(1852)、前権大納言菅原聡長(さきのごんだいなごん すがはらとしなが)から、先祖の菅原道真の笏(しゃく)をうけ、その後、山名を菅原山と称しています。

等正寺(とうしょうじ)


 浄土真宗大谷派に属し、宝永山と号しています。永禄4年(1561)創建といわれ、元禄9年(1696)住持(※)円立のとき火災にあいました。その後、再建修理がくり返され現在にいたっている。本尊は阿弥陀如来。とくに鐘楼は、扇たる木の手法であり近郷には珍しいものです。

※住持(じゅうじ。寺の長のこと。)

大道南

大宮(大宮神社:おおみやじんじゃ)


 第27代安閑(あんかん)天皇を主祭神として祀られた神社です。安閑天皇はしばしばこの地を訪れ、放牧の適地として奨励されたので、牛を飼い牛乳を固めた酥(そ)というもの(チーズのようなもの)を献上するなど、この土地の発展に尽くされた徳を慕って祭祀されました。そのことにちなんで明治の頃まで「乳牛牧(ちちうしまき・ちちゅうしまき)」という地名が残り、今の大隅東・大隅西小学校は大正15年(1926年)に改称するまで「乳牛牧尋常小学校」と称していました。
 また、この地は聖徳太子の伝承が多く、主祭神御神体の木像は聖徳太子の直作といわれています。聖徳太子は、この地を四天王寺建立の候補地として考えられていましたが、洪水が多かったので結局は今の天王寺に建立されましたが、たびたびこの地を訪れた聖徳太子は42歳のとき、村人達の歓待のお礼にと自画像を描き贈られたことが今に伝えられ奉祀されています。その旧跡であることから、大阪市へ編入される大正14年(1925年)まで「西成郡天王寺庄」と称していました。また、このとき太子の別称豊聡耳(とよとみみ)皇子から「豊里町」と名づけられたといわれています。
 社殿は、改修前の旧淀川北岸の堤に面してあり、樹齢1000年以上という楠や杉、松の大樹が多数あったので「大宮の森」といわれ、淀川を上る船はこの森を目印に舵を北に取り、帆を逆に巻き上げ進行しました(古地図に逆巻の地名が見られます)。明治33年(1900年)の淀川改修のため明治37年(1904年)に現在地に移建され、明治43年(1910年)に三番の豊国(ほうこく)神社を、大正8年(1919年)に橋寺の橋多賀神社を合祀しました。今も境内は数本の楠につつまれて、本殿、日天(にってん)社、八幡(はちまん)社、楠(くすのき)社、豊光(とよみつ)社などがたたずんでおり、祭事には大勢の人々が訪れます。

教安寺(きょうあんじ)


 真宗大谷派寺院。淀川の改修時に、当地に移転してきました。そのとき境内のイチョウの大樹も移植しました。秋にはギンナンがたくさん実ります。

正泉寺(しょうせんじ)


 真宗大谷派寺院。本尊は阿弥陀如来。宝暦年間(1750~1763)の僧、暁恵を中興の祖としています。残念ながら享保5年(1720)の火災で記録は全て焼失し詳しく判明していません。
 境内本堂前には、樹齢300~400年といわれるイチョウの木があります。

専超寺(せんちょうじ)


 本願寺住職の顕如上人(けんにょしょうにん)の弟子である宗圓が私有地に一宇を創建し、天正年間(1570年ごろ)に織田信長との石山合戦に参加したのが始まりです。
 本尊は阿弥陀如来で、承応3年(1654年)4月4日に西本願寺の良如(りょうにょ)上人から授かり、寺宝となっています。安永5年(1776年)2月に火災を被り全焼しましたが、同年7月に本堂庫裏(くり)が再建されました。
 山号は天王山で、現在も町会名として残っている能條・竹間・野村と平田のあたりを、聖徳太子が四天王寺の候補地と選定したことから、かつて天王寺庄の地名がつけられ、その地名にちなんで「天王山」とされたと伝えられています。
第11世一乗は江戸末期 天保年間(1830~1843)より寺子屋を設け、子弟の教育に力を尽くしました。その寺子屋は、明治7年(1874年)7月1日創立の豊里小学校の前身として存在したものです。
 昭和45年に現本堂を再建し、中国紅蘇省の寒山寺をほうふつさせる鐘楼門は、古式によりながらも近代建築の粋を集め、優雅で重厚な風姿を呈しており、昭和55年(1980年)12月に新築されたものです。梵鐘(ぼんしょう)は250貫もあり、市街地にふさわしい鐘音にと苦心の鋳造であり、その大きさともあいまって近郊では類を見ない名鐘です。その余韻は嫋嫋(じょうじょう)として三里四方に聞こえると言われています。

豊里

教應寺(きょうおうじ)

豊里3-13-16


 伝教大使が唐より帰国し、法上寺として創建したのが最初である。その後天和(てんな)3年(1683)真宗にかわり、現在の寺名となった。天明3年(1783)本堂を再建したが、淀川改修で現在地に移転し、その後戦災をうけるなど災害が続いた。

定専坊(じょうせんぼう)


 行基(ぎょうき)の開いた横玉山西光寺(おうぎょくざんさいこうじ)というお寺で、永徳2年(1382)に楠木正成(くすのきまさしげ)の孫である正勝(まさかつ)が隠棲(いんせい)し、その縁で、楠氏の墓が残っています。正勝の孫の掃部助(かもんのすけ)は出家して浄賢(じょうけん)と名乗り、それまで真言宗だった西光寺を浄土真宗に改め、寺名を定専坊としました。定専坊の名は、本願寺8世の蓮如(れんにょ)が命名したものです。大坂に石山本願寺を創建し、発展の基礎を築いた蓮如は、明応8年(1499年)85歳のときに山科本願寺へ戻りますが、その途中の2月18日、「さんば(定専坊の建っている地名)の浄賢」のところに寄り、後継者である息子の実如(じつにょ)を呼んで、浄賢立会いのもとで遺言を伝えました。このことから、蓮如と浄賢には深いつながりがあり、定専坊が信頼できる場所であったということがわかります。山門の「蓮如上人遺跡」の石柱はこれらの故事を物語っています。
 浄賢から三代目の了顕(りょうけん)の時代、元亀(げんき)・天正(てんしょう)の頃(1570~80年頃)、織田信長が石山本願寺を攻撃したことで始まった「石山戦争」で、了顕は門徒たちを集め大活躍しました。そのことで本願寺11世顕如(けんにょ)は了顕に石山本願寺の釣鐘を贈ります。境内の鐘楼にある鐘がそれです。その前には、楠木正勝らの墓も並んでいます。
 江戸時代には多くの末寺を従えていた定専坊も、今は一寺院となり、また、明治の淀川大改修に伴い村全体が移転することになって、当時の広い境内はありません。しかし、歴史の変遷と人の興亡を、天正の鐘声が伝えているように思われます。

法正寺(ほうしょうじ)


 浄土真宗本願寺派。本尊は、阿弥陀如来。始まりは今から4百余年前の元亀(げんき)4年(1573年)のことです。開祖は願念法師で、俗名は楠惣左衛門、北伊勢の城主であった楠十郎左衛門正友の一族でした。北伊勢の城で織田信長と戦いましたがついに敗れ、つぎに大坂の石山本願寺に味方して、石山合戦(本願寺と織田信長の戦乱)に奮闘しました。やがて、本願寺11世住職顕如(けんにょ)の弟子となって仏門に入り願念と改め、元亀4年に顕如から本尊を授かり、楠氏ゆかりの三番村(さんばむら)に移住し、宝正寺(現在は法正寺)を建立しました。
 願念はその後も本願寺に力を尽くし、この功によって、さらに顕如から「帰命尽十方無碍光如来(きめようじんじっぽうむげこうにょらい)」と記した顕如直筆の名号を授かり、現在では開基本尊として寺宝とされています。
 願念法師のあと、現在の住職まで14世と継がれています。第11世住職僧了は、はるばる九州日田(ひた)の「咸宜園」(かんぎえん:広瀬淡窓の塾)で漢詩文を学び、のちには地元の教育に努め、豊里小学校のルーツの一つといわれる寺子屋を開いていました。また、第12世住職廓了も教育に力を注ぎ、境内にある「上田先生の碑」は大正10年に当時の教え子たちが遺徳を偲んで建碑したものです。

豊新

浄福寺(じょうふくじ)

豊新1-3-31

 浄土真宗本願寺派の寺院で、平家建家屋を改築しました。本尊の阿弥陀如来立像は江戸時代の作と推定されており、その蓮台の下では、餓鬼を押さえつけているという特異な約0.8mほどの像であります。昭和初期に安置されています。

上新庄

春日神社(かすがじんじゃ)


 境内に入ると、鮮やかな色彩の社殿と常緑樹の楠に迎えられます。かつて榊神社と尊称し、稲倉魂神(うがのみたまのかみ)を産土神としています。天正6年(1578年)に奈良春日神社より御分霊を勧請遷祀(かんじょうせんし)し、榊(さかき)神社から改称され、現在に至っています。本殿は江戸時代 貞享(じょうきょう)2年(1685)の建立であり、拝殿は2年前に改築され、厄よけ魔よけに効果があるといわれている朱色を基調に建てられています。境内には多くの樹木が茂っており、その中でも本殿奥にある楠は、昭和43年に大阪市保存樹に指定されており、樹齢は433年を迎えています。
 春・秋には境内で氏子による春・秋祭りが催され、多くの方で賑わっています。特に秋祭りには2対(4本)の幟(のぼり)がたてられます。これは、昔、幟を持ち町内を練り歩いたあと境内に幟を立てる早さを競争した行事のなごりで、今も大切に守り受け継がれているものです。

信覚寺(しんかくじ)


 浄土真宗本願寺派。文禄年間(1592~95)創建とされていますが、江戸時代中期には無住に近い寺であったといわれています。享保5年(1720)に伊予藩家老の子であった月秀が、母の意に従い当寺に入って盛んにし、中興の祖とよばれています。

下新庄

覚林寺(かくりんじ)


 浄土真宗本願寺派。本尊は、阿弥陀仏。創立は寛正年間(1460~6)、蓮如の直弟子慶清が檀家の協力を得て建立したとされています。それ以来20世、とくに第15世超海の文書、鐘名等が残り、親鸞上人像があります。

明教寺(みょうきょうじ)


 浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。文明9年(1477年)、本願寺第8代宗主蓮如上人の教化を受けた直弟子釋教誓(しゃくきょうせい)が開基となり、文明16年(1484)に創建しました。明教寺の山号は「城地(じょうち)山」と号し、豊臣秀吉の臣であった中川清兵衛清秀がこの地に本丸を有した城を築いたことが『新庄村明細帳』・『明教寺就御尋奉書上由緒書』などに記されています。また、この地に新しい城を築いたことから、「新城」と称するようになり、のちに「新庄」という地名に転じ、元禄年間に上新庄と下新庄に二分されたといわれています。
 明教寺は、文禄3年(1594年)、元禄14年(1701年)に再建されましたが、宝永4年(1707年)に火災の類焼に遭い、翌年再建、さらに現存の元となる本堂は安永9年(1780年)に第8代住職智曠(ちこう)の時代に再建されました。
 本堂には、親鸞聖人が常陸国で布教中にどんな困難にも耐えようと、石を枕にして寝た故事にちなみ、親鸞聖人の孫である如信(にょしん)上人が正安元年に刻み、唯円坊(ゆいえんぼう)などを経て、教誓に授けられたという、珍しい「親鸞石枕木造」(写真)が現在も安置されています。また、境内には「西涯(さいがい)先生の碑」があります。これは、第13代住職善亮(ぜんりょう:新庄西涯)が豊後日田の広瀬淡窓(たんそう)が開いた「咸宜園(かんぎえん)」で学び、明治19年(1886年)、「修文学館」という私塾を開いて門人を育成したことに対し、その徳を慕って、門人たちが建てた顕彰碑です。

菅原

覚明寺(かくみょうじ)


 浄土真宗本願寺派。昭和54年、日本の産業近代化に貢献を評価、早稲田大学より事跡を出版された親族宇野が主宰の工業教育会に守山市覚明寺十八世前住職が参画し、昭和9年解散直後、同会で法座を開催せる時の信徒を中心に、当地に分院を建立しました。平成8年7月31日、菅原5-5-18より現在地に移転しました。

光台寺(こうだいじ)

菅原1-11-17

 明治初年、当地に集議所として建築され、僧教正が布教道場として活用されていました。光台寺は天正6年(1578)、現在の都島区に創建されましたが、昭和20年(1945)の空襲により灰燼(かいじん)に帰しました(※)。その後、縁あって当所へ移転、現在に至っています。

※灰燼に帰す…すっかり燃えて跡形もなく灰になってしまうこと。

菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)


 菅原道真公を祭神とし、寛永(かんえい)年間(1624~44年)、この地が開発されたときに勧請(かんじょう)されました。代々の言い伝えでは延喜(えんぎ)元年(901年)に菅原道真が大宰府へ左遷され淀川を船で下る途中、当地摂津の国、二重新家村(ふたえしんけむら)住民の出迎えを受けて上陸され、逆川(さかがわ:淀川の支流)の土堤から東を眺めて京の名残を惜しまれた由緒ある土地であるとされています。そして菅原道真が上陸した淀川の岸を「牛まわし」と名付け菅公の遺跡として言い伝えられています。「菅公ゆかりの地、牛まわし」と刻んだ碑が、正面石段の左下にあります。
 境内は一段高く、小丘陵になっています。天保(てんぽう:1830~44年)の頃、時の代官築山蔵左門(ちくざんぞうざえもん)が「堤防崩壊禁止令」を出し、堤防の盛り土を命じました。その名残が毎年9月9日(現在は10月25日)に境内に土を運ぶ行事となり、村民こぞって参加したそうです。治水に挑む農民の生活が象徴された行事として伝えられており、現在も幼稚園児が天秤棒に砂を盛り、担いで石段を登る「砂持ち」の行事が行われています。
 境内には、江戸時代の神燈や水鉢などがありますが、ひときわ目をひくのは樹齢約400年といわれている楠の大樹です(高さ23.9メートル、幹周り4.6メートルで昭和43年10月1日指定の大阪市保存樹)。現在の社殿は、昭和43年に再建されたものです。

東淡路

光宝寺(こうほうじ)

東淡路4-22-5

 真宗佛光寺派に属し、本尊は阿弥陀仏。行友山と号し、徳治2年(1307)、了智が開基(※)しました。宝暦の初め火災で焼失し、宝暦10年(1760)に本堂が再建されたといわれています。

※開基…寺院を設立すること。

淡路

愛宕神社(あたごじんじゃ)

淡路1-11

 大正8年に、落雷被害を防ぐために、京都愛宕神社より分神を、同時に天満宮も祭って、村をあげて創建されました。今も、地域の子どものよき遊び場として、また盆踊りなど、憩いの場として、利用されています。

永春寺(えいしゅんじ)


 延宝3年(1675年)に建立され、明治11年(1878年)に来(らい)一族の居住跡であった萬年山春明庵と合併して、現在地へ移転しました。
 来一族は、京都で刀剣師として暮らしていましたが、南北朝の戦乱を避けるため、元徳3年(1331年)に来国安(くにやす)・国長(くになが)・国次(くにつぎ)らが淡路へ来て、淡路庄や中島庄に門人たちと住んでいたといわれています。
なかでも、来国次は来一門の秘術をさらに発展させるため鎌倉へ下り、数々の名刀「正宗」を製作した岡崎正宗の門下に入りました。国次は地刃に地景金筋を美しく表し、大模様の乱刃を焼く正宗流を習熟し、正宗の作品に銘のあるものが少ないことから、正宗の名刀といわれるものの中には、国次作のものが多く混同されているといわれています。
 この辺りは国次町と呼ばれていましたが、国次は正中2年(1325年)頃に病没したといわれ、これは来一族が淡路に来る6年前であることから、国次がこの地に住んでいたかは疑問視されています。
  本堂には、境内にあった楠を彫って作られた聖観世音菩薩(しょうかんぜんおんぼさつ)が祀られており、本堂の前には来一族の墓である石廟(せきびょう)と当時使用した井戸があります。また、井戸の後ろにある灯籠は、「雨月物語」の作家として知られる国学者上田秋成が春明庵の住職に寄贈したものです。

願照寺(がんしょうじ)


 蓮如上人の直弟子、玄道の創建(寛正4年1463)。明治9年、増島村にありましたが火災により焼失しました。翌10年、高畑村に移転して本堂再建しましたが、それも昭和20年に戦災で烏有に帰しました(※)。そのとき、蓮如直筆の六字の木版も失いました。刀工来氏一族の墓があります。

※烏有(うゆう)に帰す…火災等で焼けて、すっかりなくなること。

西光寺(さいこうじ)

淡路4丁目27-13

 真宗本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来。開基は了珍と称し、文禄4年(1595)の創建で、寛永11年(1634)に新たに寺号を受けました。

妙道寺(みょうどうじ)


 法華宗本門派、昭和12年創建。初めは正隆教会と称していましたが、昭和21年(1937)寺号を受けました。
 第二世浄龍尼は、助産婦でもあり地域に親しまれ、助産婦として大阪府制定のナイチンゲール賞を授賞しました。

西淡路

正徳寺(しょうとくじ)


 西本願寺法主寂如上人の直弟子僧恵観が、延宝2年(1674)創建したとされています。宝暦8年(1758)に火災により焼失したましたが、約60年後に復旧しています。しかし、太平洋戦争により三たび烏有に帰しました(※)が、壇信徒の協力により復興し現在に至ります。

※烏有(うゆう)に帰す…火災等で焼けて、すっかりなくなること。

東中島

源光寺(げんこうじ)


 浄土真宗本願寺派 山号は恵日山。天正12年(1584)に教西(生澤源七郎)が現在地に創建しました。
 昭和20年6月7日の戦災により、建物、仏具はほとんど焼失しましたが、喚鐘・六字名号軸・大鑿(のみ)が残っています。

正覚寺(しょうかくじ)


 寛文2年(1662)開基教信が真宗の道場を創建したとされています。昭和20年の戦災で、本尊阿弥陀如来以外全て灰燼に帰しました(※)。以後、壇信徒の御墾念により本堂再建を果たし、昭和56年に一筋北の現在地に移転し、新築しました。

※灰燼(かいじん)に帰す…跡形もなく焼けてしまうこと。

正福寺(しょうふくじ)


 浄土真宗本願寺派の寺院で、かつて武士であった中井玄智によって正保4年(1647)に創建されました。最初、川口村にあったものが淀川改修のため南方町へ移転し60年余りありましたが、区画整理のため現在地へ移りました。洋風のたたずまいです。

信明寺(しんみょうじ)


 真宗大谷派寺院で、創建は大正5年。念仏興隆を願って、愛知県にある万瑞寺より分かれて当地に来ました。太平洋戦争の戦災により全て焼失しましたが、昭和23年に、復興しました。

崇禅寺(そうぜんじ)


 天平年間(729~748年)に法相宗の行基によって創建されました。最初は、観音堂のみであったといわれています。約560年前、室町幕府6代将軍足利義教(あしかがよしのり)は嘉吉(かきつ)の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されました。赤松満祐はその後自害することになりますが、義教の首級を携えて播磨へ下る途中に崇禅寺森の観音堂付近にその首を埋めます。翌年、幕府はその地に菩提を弔うため、細川持賢に崇禅寺を再興させました。境内には「細川ガラシャの墓」「遠城(えんじょう)兄弟の墓」「義教の首塚」、宗派の別を問わずに永代納骨している「夢殿式永代納骨堂」、日本三景の松島を象っている「茶席庭園」があります。

細川ガラシャ
 本名は玉、明智光秀の娘として生まれ、聡明で教養深く、16歳の時に細川忠興(ほそかわただおき)と結婚しました。しかし、父光秀の謀反により19歳のときに丹後半島に幽閉され、3年後の22歳のときに秀吉に許されます。ある時、忠興からキリシタン大名高山右近の話を聞き、元来慈悲深かった玉はキリスト教にひどくひかれ、熱心な信者清原マリアの手引きで洗礼を受け、ガラシャ(恩寵の意)という洗礼名を得ました。忠興は1600年に家康に従って奥州の上杉攻めに参加し、その留守を見計らって石田三成は徳川家への不満分子を誘い関ヶ原の戦いが始まります。三成はまず、玉造の細川家を強襲し、妻子を人質として大坂城に入城するように促しましたが、ガラシャはそれを堅く拒み、火の付いた屋敷内で37年の生涯を終えました。宣教師オルガンチノは細川屋敷跡からガラシャや殉死者の遺骨を拾い、細川家にゆかりのある崇禅寺に運びました。
 ガラシャの墓は無地の五輪塔で「秀林院細川玉子之墓」の石標が建っています。周りには6つの墓石があり、これは殉死者のものといわれています。

崇禅寺馬場の返り討ち
 当時25歳だった生田伝八郎は、17歳の若者ながら武芸に秀でていた遠城宗左衛門重次に剣術の試合を申込み敗れます。伝八郎の生田家は200石、遠城家は80石、生田家は遠城家に遅れをとったと腹を立て、1715年5月14日の早朝、重次を闇討ちして逐電します。これを嘆いた重次の母は腹違いの2人の兄弟を呼び仇討ちを頼みます。兄が弟の敵を討つことはすでに禁止されており、遠城兄弟は脱藩し変名して、生玉神社で仇討ちを祈願します。同年10月26日、兄弟は生玉境内近くで伝八郎とばったり出会い、勝負を求めます。しかし、伝八郎は市中を騒がし神域を汚すのは本意ではないと、明後日の28日、中島の崇禅寺馬場で戦おうと確約します。ところが、伝八郎の策略のためか28日は延期され、11月4日に日を改めます。遠城兄弟は、準備万端抜かりなく崇禅寺松原に乗り込みますが、待ち伏せしていた伝八郎とその加勢に襲われ、奮闘するも及ばず幕を閉じます。その後、伝八郎は仇の方が助太刀を頼んで返り討ちにしたことで世論の風当たりが強く、わずか20日後に割腹します。もう一説には、崇禅寺馬場で遠城兄弟、伝八郎ともに倒れるという伝えがあります。

徳蔵寺(とくぞうじ)


 最初、恵信僧都が学僧の勉学のため草庵を建てたことがはじまりとされています。その後、浄土真宗本願寺派に属し、本尊阿弥陀如来を安置しました。
 楠木正成・政勝が湊川で自決後、遺骨を一時ここに納めたといわれ、その五輪塔の残石があります。

中島惣社(なかじまそうじゃ)


 孝徳天皇の白雉(はくち)2年(651年)難波長柄豊碕に遷都されたころ、五穀豊饒を祈るために多くの神領を得て創建されたといわれています。
 建武年間、足利氏が幣帛(へいはく:神前に供える物)奉納した記録があり、豊臣秀頼が中島總社と記された絹地を献納するなど、豊臣氏は特に崇信していたようです。慶長の末年、大坂の陣において兵火にあい、古文書などは焼失し本社古代の絵図面一葉と、建武2年(1335年)中島總社と記した木製額面のみとなり、創祀の年月は不明ですが、その昔中島郷の中洲にあり、田畑が開け人家も増加したため守護神として宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)を祀ったのが始まりと伝えられています。
 中島惣社は最初、稲荷神社と呼ばれていましたが、明治29年に中島惣社の現名に改めました。惣社というのは総社の意味で、中島郷48カ村の親宮(総社)ということからです。明治41年から42年にかけて近隣の多くの神社を合祀しました。
 崇禅寺から中島惣社の一帯は崇禅寺馬場と呼ばれ、明治時代には19,000坪余りの境内を持つ立派な神社でした。昭和20年の空襲で焼失してしまいますが、幾度かの改築を経て、現在は美しい社殿に整備されています。なお、昭和の初めには社域から弥生式土器も多数発見されており、また境内には芭蕉の詠んだ句を刻んだ「落葉塚」と呼ばれる句碑が建てられています。
 中島惣社は今日も、境内の楠とともに人々の暮らしを見守り続けています。

柴島

願力寺(がんりきじ)


 香厳山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀仏。
 創建の時代は詳かでありませんが、延宝5年(1677)に願力寺の寺号を受け寛政年間(1789~1801)の住持の賢荘をもって、中興の祖とされています。

柴島神社(くにじまじんじゃ)


 伝えによると、貞永(じょうえい)元年(1232年)9月、この付近は大洪水に襲われました。村人が「仲哀天皇の森」と呼ばれていた高台に避難していたところ、柴(しば)に乗った小社(しょうしゃ)が漂着してきました。その夜、3人の里長(さとおさ)の夢に、白馬にまたがり鹿を連れた3人の老翁(ろうおう)が現れ、「われわれは八幡(はちまん)・春日(かすが)・天照皇大神(あまのてらすこうたいじん)だ。祀れば地元は平安になる。地名は柴島(くにじま)と名づけるのがよかろう。」と告げました。村人たちは、これは神様のお告げに違いないと、この小社を守護神として祀ったところ、洪水の無い繁栄した村落になったということです。元の位置は、淀川改修工事によりその河川敷となったので、明治34年4月、現在の場所に移転しました。
 なお、柴島神社には、室町時代の様式の太刀が御神刀として代々伝えられ、大阪府有形文化財に指定されています(太刀は大阪歴史博物館に保管されています)。

善教寺(ぜんきょうじ)


 解脱山と号し、延徳2年(1490)に信保が創建。信保は俗名を辻本忠右衛門と称し、蓮如上人に帰依しました。天文13年(1544)、三世西善のときに寺号を受け、明治33年8月、淀川改修工事のため現在地に移転しました。

法華寺(ほっけじ)


 天平13年(741年)、聖武天皇は国家鎮護を目的とし、中央集権体制を推進するために、全国に国分寺(金光明四天王護国寺:こんこうみょうしてんのうごこくじ)と国分尼寺(法華滅罪之寺:ほっけめつざいのてら)を置くように命じました。同年、法華寺はこの勅命により創建され、尼僧10人が常住し、「摂津法華滅罪之寺」と称したことから、摂津国分尼寺にあたるといわれています。室町時代に入ると、法華寺はいったん廃絶しましたが、応永13年(1406年)に僧了庵慧明(りょうあんえみょう)が再興、寛永16年(1639年)に篤信家であった吉田忠次が堂宇(神仏が祭ってある建物)を寄進し、曹洞宗の禅寺法華寺として知られるようになりました。当時、柴島浄水場付近に再建されましたが、大正3年(1914年)に浄水場建設のため、現在地に移転しました。
 境内には、鎌倉期のものとみられる石造古五層塔があり、塔の下には経文が書かれた小石が数千個埋蔵されているといわれています。五層塔の後ろには、国分尼寺時代の礎石があります。
 山門の右にある地蔵堂には、弘法大師が爪で刻んだといわれる「爪引地蔵(つめびきじぞう)」が祀られており、石仏の地蔵では大阪で一番古いものといわれています。台石に乗った高さ1.8メートル、幅1メートル、厚さ0.5メートルの不整形な花崗岩の自然石に、線彫りされた地蔵です。そのお姿は、地蔵が人々を救うために町へ出たところ、救済にもれた人をふと見かけて振り返り、救いの手をさしのべようとする姿を象徴する見返りの姿をとっています。
 本尊は見事な瓔珞(ようらく:仏像を飾るもの)をつけた釈迦牟尼仏像で、華厳の釈迦と呼ばれています。

萬福寺(まんぷくじ)


 空専(くうせん)が弘安年間(1278~1288年)に創建しました。700年以上の歴史があり、山号は「指月山」、本尊に阿弥陀如来像を有す浄土真宗本願寺派の寺院です。いったん、天台宗から仏光寺派へ宗旨を変えたあと、9世法実(ほうじつ)の時に本願寺8世蓮如上人(れんにょしょうにん)の教化により、本願寺派に転派しました。仏光寺の48坊のうち42坊が蓮如上人に従ったほど、本願寺勢力が飛躍的に拡大した時期です。淀川流域の仏光寺門徒も、この時に本願寺派に転じたものが多いと思われ、のちにそれらの門徒が中嶋衆と呼ばれる本願寺教団を支える門徒集団となりました。
 ここ萬福寺では、寛正4年(1463年)に蓮如が法実を願主としたことを記す裏書きを伴う掛け軸「絹本著色日本血脈相承真影(けんぽんちゃくしょくにほんけちみゃくそうじょうしんえい)」(平成12年度大阪市指定文化財)が伝来しています。この掛け軸は、法然(ほうねん)にはじまる日本の高僧と萬福寺の歴代住職などを描いたもので、空専からが萬福寺の住職らです。蓮如の裏書きを伴っていることは、仏光寺門徒の本願寺教団への転派の過程を示し、中嶋衆の成立を考えるうえで重要な資料です。

※掛け軸は劣化防止のため非公開。
※太平洋戦争により、戦災をうけましたが、昭和27(1952)年に再建。

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