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真宗大谷派 法輪山 傳了寺(でんりょうじ)

2019年7月12日

ページ番号:295451

案内板

 明応(めいおう)七年(一四九八)僧眞(しん)観(かん)により創建された。当時は蓮如上人が大坂に石山(いしやま)御坊(ごぼう)を建立(こんりゅう)し(明応五年)、久(きゅう)宝寺(ほうじ)の慈(じ)願寺(がんじ)を拠点(きょてん)に河内開(かい)教(きょう)に当たっていた。東喜連は久宝寺から徒歩圏内であり、強い影響を受けたであろう。眞観も蓮如(れんにょ)上人に帰依(きえ)し、真言宗(しんごんしゅう)より改宗したと伝えられる。

 本尊(ほんぞん)阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)木仏(もくぶつ)を寛永(かんえい)十六年(一六三九)、蓮如上人絵像を正保(しょうほう)四年(一六四八)、親(しん)鸞(らん)聖人(しょうにん)御影(ごえい)を寛(かん)文(ぶん)三年(一六六三)に東本願寺第十三代宣如(せんにょ)上人より下付(かふ)される。続けて寛(かん)文(ぶん)五年(一六六五)には七(しち)高僧(こうそう)絵像・聖徳太子(しょうとくたいし)絵像の下付を受け、比較的短期間に五尊を揃えている。こうして寺(じ)観(かん)を整え、寺号(じごう)「傳了寺」を免許(めんきょ)されて、江戸時代初期に惣道場から寺院化への過程を完成した。傳了寺では宗祖(しゅうそ)親鸞聖人絵像より先に蓮如上人絵像を戴いており、蓮如上人帰依からの創立経過を示唆している。

 安政(あんせい)四年(一八五七)自庵(じあん)化し、当時の住職十七世懃(ぎん)麗(れい)により「什物(じゅうぶつ)目録(もくろく)」が作成され、「惣(そう)門徒(もんと)帰依連印帳(きえれんいんちょう)」と共に現存している。十八世村上暁(ぎょう)照(しょう)は「寮司(りょうす)」の肩書(かたがき)を持つ学僧(がくそう)で、十九世猪妻(いのめ)賢(けん)成(じょう)への譲渡(じょうと)まで(安政六~明治十年)安政地震(一八五四)後の本堂再建に在職の大半を尽くしたことが、明治四年普請(ふしん)絵図(えず)より窺(うかが)える。

 老朽化した本堂が、平成七年(一九九五)の阪神淡路大震災により維持困難となり、二十三世猪妻暎(えい)充(じゅう)の代、平成十年(一九九八)に、多くのご門徒の懇(こん)志(し)により現在の本堂が新築再建され、創建より五百有余(ゆうよ)年の法(ほう)燈(とう)を守っている。                             

【所在地】
平野区喜連東1-7-4

【電話番号】
06-6709-3328

由緒を伝える明治初期の文書

由緒を伝える明治初期の文書
この地に古くからあった真言宗寺院の僧眞観が「真宗に帰し」とある。七月廿八日と日付まで記され、明確な伝承があったと思われる。明応七年は蓮如が河内巡錫にあたった時期である。

正保四年(1647)蓮如絵像

正保四年(1647)蓮如絵像

正保四年(1647)蓮如絵像 親鸞聖人御影より先に戴く東喜連村惣道場とある

正保四年(1647)蓮如絵像
親鸞聖人御影より先に戴く東喜連村惣道場とある

惣門徒帰依連印帳 東喜連村御直宗門徒

惣門徒帰依連印帳 東喜連村御直宗門徒

惣門徒帰依連印帳

惣門徒帰依連印帳

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