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浄土真宗本願寺派 梅光山 教西寺(きょうさいじ)

2019年7月12日

ページ番号:295688

案内板

 道場(どうじょう)創立(そうりつ)は享(きょう)禄(ろく)四年(一五三一)。江戸(えど)時代(じだい)初期(しょき)の延(えん)宝(ぽう)七年(一六七九)には「教(きょう)西寺(さいじ)」を名乗(なの)っていた。大阪府(おおさかふ)全志(ぜんし)は「(「)推古(すいこ)天皇(てんのう)二年(五九四)聖徳太子(しょうとくたいし)創建(そうけん)にして阿弥陀寺(あみだじ)と号せし」と伝え、寺伝(じでん)では本尊阿弥陀像(あみだぞう)は古代(こだい)阿弥陀寺(あみだじ)のものである。西方(さいほう)浄土(じょうど)を指す教西寺の「西」が西喜連村西方に字名(あざめい)の残る阿弥陀寺をも指すと考えれば、梅光山の「梅」はその西の字梅ノ木と暗合(あんごう)する。古代阿弥陀寺の廃絶(はいぜつ)で本尊が古代善法寺(ぜんぽうじ)に引き取られ、室町(むろまち)時代(じだい)の善法寺の廃絶を受けて、享禄四年に阿弥陀像が念仏道場に継承(けいしょう)され教西寺になったと考えられる。小字(こあざ)善法寺は当寺の南東五〇〇mの字山王(さんのう)にある。

 教西寺の喚(かん)鐘(しょう)には「天明(てんめい)七歳(一七八七)・喜連(きれ)河野村(かわのむら)」の銘(めい)がある。教西寺は東喜連環濠(かんごう)外の南に位置し、東喜連でも中喜連でもない村の成り立ちがあると思われる。享保(きょうほう)年間(一七二〇年頃)、教西寺は西出戸(にしでと)にも檀家(だんか)を持っており、旧い寺基(じき)が山王方面にあったことを窺(うかが)わせる。

 古市(ふるいち)街道(かいどう)(行者堤(ぎょうじゃつつみ))の通る山王一帯は古代より要衝(ようしょう)の地で、媛(ひめ)天神(てんじん)、善法寺、橋本寺(はしもとじ)などの伝承が残り、豪族(ごうぞく)の住居(じゅうきょ)跡(あと)などが発掘(はっくつ)されている。

 喜連東の地蔵堂(じぞうどう)から焼けただれた二体の石仏(せきぶつ)が出てきた。戦乱(せんらん)の中世(ちゅうせい)、戦禍(せんか)により一部(いちぶ)の人(ひと)達(たち)がこの地(ち)に移り(うつり)、教西寺を信仰(しんこう)の中心に独立(どくりつ)心(しん)旺盛(おうせい)な河野村を作ってきたと考えられる。

2014年10月27日報恩講風景

報恩講風景(2014年10月27日)

2014年10月27日報恩講風景2

報恩講風景2(2014年10月27日)

中世道場の押し板形式を継承する内陣

中世道場の押し板形式を継承する内陣

古代阿弥陀寺伝承のある本尊阿弥陀像木仏

古代阿弥陀寺伝承のある本尊阿弥陀像木仏

教西寺の寺号を記す延宝七年(1679)村明細帳

教西寺の寺号を記す延宝七年(1679)村明細帳

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳
(享保八年1723-193+1=1531=享禄四年)

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳
(右開基享禄年中ゟ享保八(一七二三)卯年迄百九十三年)

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳

開基享禄四年を記す享保八年中喜連村寺社帳
(教西寺持庵住持玄立)

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