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浄土真宗本願寺派十方山 法性寺(ほっしょうじ)

2019年7月12日

ページ番号:297066

案内板

藤本善之亟(ぜんのじょう)玄(げん)了(りょう)が大坂(おおさか)本願寺(ほんがんじ)実(じつ)如上人(にょしょうにん)の弟子(でし)となり、大永年中(だいえいねんちゅう)(一五二〇年代)道場を創建(そうけん)。藤本傳右衛門(でんえもん)了法(りょうほう)が元禄(げんろく)十五年(一七〇二)再建を志し、西本願寺より本尊(ほんぞん)阿弥陀像(あみだぞう)を得て、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)御真影(ごしんえい)と寺号(じごう)を得る。宝(ほう)永(えい)地震(じしん)後いち早く新築再建を果たし、庄屋(しょうや)邸(てい)で庄屋が兼任していた辻(つじ)本道場(もとどうじょう)から寺院建築で専業の堂(どう)僧(そう)を置く法性寺となった。安政(あんせい)地震(じしん)で再度再建されているが、堂宇の古い部材は宝永期のものである。

法性寺には寺子屋(てらこや)があり、明治(めいじ)五年学制(がくせい)発布(はっぷ)の年、この中で喜連小学校が誕生した。最近確認された墓碑銘(ぼひめい)から寺子屋の存在が寛政(かんせい)八年(一七九六)以前に遡ることが判った。喜連では江戸時代中期から百姓(ひゃくしょう)の子どもたちが読み書きができたことが、大阪の一周辺村だった喜連が現在の大阪市でも八番目(明治五年・一八七二年創立=平野区最古)の小学校を設立した歴史的(れきしてき)背景(はいけい)である。

昭和三六年(一九六一)に廃絶(はいぜつ)した寶(ほう)林寺(りんじ)を合(がっ)併(ぺい)し、寶林寺本尊阿弥陀如来木像(年代等不詳(ふしょう))を安置(あんち)する。寶林寺は享保(きょうほう)期(一七三〇頃)以降の江戸時代中期に西喜連に創立または再建された本願寺派の寺である。喚(かん)鐘(しょう)は明治十一年(一八七八)同寺の廿(にじゅう)四日講中(よっかこうちゅう)寄進(きしん)のもので、現在も法性寺で往時(おうじ)の音色(ねいろ)を響かせている。

【所在地】
平野区喜連6-5-18

【電話番号】
06-6708-5290

法性寺 阿弥陀如来

法性寺 阿弥陀如来

阿弥陀如来

一七〇七年一〇月に起きた宝永大地震以前に、この阿弥陀如来は法性寺に来ていたものと推測される。
大震災の際に、左足が台座から折れた痕跡がある。(右足は次の写真に)

阿弥陀如来の足下臍(ほぞ)から「康雲拝見」という墨書が現れた。

阿弥陀如来の足下臍(ほぞ)から「康雲拝見」という墨書が現れた。康雲は元禄時代に活躍した非常に腕のいい佛師。

宝林寺の阿弥陀如来

宝林寺の阿弥陀如来
「宝林寺は長く無住で法性寺が代務をしておりました。その関係で、廃寺となった昭和三六年六月に阿弥陀如来を法性寺に安置し、檀家も合併したことになります。」

宝林寺の阿弥陀如来

宝林寺の阿弥陀如来
この阿弥陀如来の制作年代は左手の欠損が宝永大地震によるものであれば元禄から宝永の頃と思われる。

親鸞聖人の絵像

親鸞聖人の絵像
「親鸞聖人御影厨子の扉には天皇家の菊の御紋と豊臣家の五三桐の御紋が付いています。本願寺が大坂本願寺顕如上人の代に天皇家と婚姻関係を持つ門跡寺院となったこと、中喜連村が豊臣の天領であったことがシンボル化されています。また、絵像の裏書には宝永七年の記載がありました。」

宝林寺の喚鐘

宝林寺の喚鐘
「摂州喜連村宝林寺什物施主廿四日講」 「明治十一歳寅吉日」との銘があり、宝林寺の毎月二四日に集まる会衆一〇名から寄進されたものである。

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