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真宗大谷派空楽山 專稱寺(せんしょうじ)

2019年7月12日

ページ番号:297073

案内板

專稱寺(せんしょうじ)は元亀(げんき)二年(一五七一)僧恵光(えこう)(現慧光寺(えこうじ))により本願寺(ほんがんじ)末(まつ)の道場(どうじょう)として開創(かいそう)され、寛永(かんえい)二年(一六二五)道場を再建、本尊(ほんぞん)・寺号(じごう)を承応(じょうおう)元年(一六五二)西本願寺より免許され寺院となった。以後も〈西〉から寛(かん)文(ぶん)十三年(一六七三)太子(たいし)・七(しち)高僧(こうそう)絵像の下付を受け、延(えん)宝(ぽう)三年(一六七五)、良如(りょうにょ)上人(しょうにん)(西本願寺二世)絵像(えぞう)を戴き、江戸時代初期にほぼ寺(じ)観(かん)が整う。しかし百年余り下って寛政(かんせい)十一年(一七九九)の蓮如(れんにょ)上人絵像は〈東〉の下付である。慧光寺が〈東〉に転じ、貞(じょう)享(きょう)四年(一六八七)平野に落ち着いたのを機に、次第に〈東〉への帰参意識が高まり、講中(こうちゅう)の意向によって、この頃から〈東〉への舵(かじ)を切り始めたと思われる。明治三年(一八七〇)、生粋の〈東〉、空楽寺から慧光寺経由で慧(え)誠(じょう)が住職として当寺に入寺、明治の中頃、それまで強いられてきた東西(とうざい)両属(りょうぞく)から解放され、東本願寺(ひがしほんがんじ)末(まつ)となって現在に至る。

山号の空(くう)楽山(らくさん)は、天正二年(一五七四)武田(たけだ)信(しん)玄(げん)公の家臣であった沼田(ぬまた)新左(しんざ)衛門(えもん)重光(しげみつ)が、主君を失い郷里に戻ることなく出家(しゅっけ)、空(くう)楽坊(らくぼう)行(ぎょう)晴(せい)と号し、江之子(えのこ)島(じま)(大阪市西区)に流れ着いた阿弥陀仏(あみだぶつ)を奉(ほう)じて、教如(きょうにょ)上人の言(げん)に随(したが)い空楽寺を興(おこ)した故事(こじ)による。なお、空楽寺は今も淀川区に、真宗大谷派・百済山(ひゃくさいさん)空楽寺として右記の阿弥陀仏と共に存続(そんぞく)し、慧(え)誠(じょう)によってもたらされた空楽寺縁起(えんぎ)を記す巻物は專稱寺に伝持されている。

※この解説では読む方の便宜のため西本願寺=浄土真宗本願寺派を〈西〉、東本願寺=真宗大谷派を〈東〉と略記させいただきました。

【所在地】
平野区喜連3-8-4

【電話番号】
06-6707-3305

本尊阿弥陀如来(承応元年(1652))

本尊阿弥陀如来(承応元年(1652))

七高僧(寛文13年(1673))

七高僧(寛文13年(1673))
本願寺寂如より下付されている。通常「源空上人」と記される法然を「圓光大師」と記す珍しい絵像。

左図:良如上人(1613~62)本願寺13世 東西分派後の〈西〉二世 右図:延宝3年(1675)

左図:良如上人(1613~62)本願寺13世 東西分派後の〈西〉二世
右図:延宝3年(1675)

真宗の東西分派と幕府の本末制度化が同時に展開する中、道場の寺院化が進んだ。專稱寺〈西―当時〉では良如上人絵像が宗祖親鸞聖人御影より先に来ている。寺院化に影響を与えた上人の絵像を先に求めたか、東西の旗色鮮明化が求められたのか。興味深い。」

空楽山專稱寺 沼田家家伝巻物「空楽寺」縁起

空楽山專稱寺 沼田家家伝巻物「空楽寺」縁起

空楽寺に現存する阿弥陀像

空楽寺に現存する阿弥陀像
天正弐年中秋(8月)台風の夜、空楽坊行晴(沼田新左衛門重光)に「今宵この濱邊に打ちよする仏有り汝守護すべし」との夢告があった。翌朝浜に出てみると、大勢の漁師が金色に光るものを鳶口で引き上げていた。教如上人を訪ねると古代百済寺の本尊なので、空楽寺を建てて護持せよとのことであった。
時代は石山合戦のさ中である。
鎌倉期まで遡る可能性があるといわれる。
腹部には鳶口の跡と伝える傷がある。

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