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真宗大谷派中野山 寶圓寺(ほうえんじ)

2019年7月12日

ページ番号:297077

案内板

村にまだ浄土真宗がなかった頃、当時久宝寺にあった慈(じ)願(がん)寺の法(ほう)円(えん)に帰依する門徒団によって興された西喜連村惣(そう)道場(どうじょう)が寶圓寺の前身である。寺号の「寶圓(ホウエン)寺(ジ)」も法(ホウ)円(エン)の音(おん)から採ったと思われる。

下って大坂(おおさか)本願寺(ほんがんじ)証(しょう)如(にょ)上人の「天文(てんぶん)日記(にっき)」天文一二年(一五四三)に喜連法(きれほう)春(しゅん)が登場する。法春も法円直系の人物である。法春によって寶圓寺の実質的基盤が村に築かれていった。

この後大坂本願寺は元亀(げんき)元年(一五七〇)織田(おだ)信長(のぶなが)との石山(いしやま)合戦(かっせん)を迎え、天(てん)正(しょう)八年(一五八〇)この終結をめぐって家臣団が顕如(けんにょ)上人(しょうにん)方の宥和派(ゆうわは)と嫡男(ちゃくなん)教如方(きょうにょかた)の抗戦派(こうせんは)に分裂。関ヶ原(せきがはら)の戦(たたかい)後の慶長(けいちょう)八年(一六〇三)、真宗は東西に分派した。

元和(げんな)七年(一六二一)、西喜連村惣道場は東本願寺(大谷派)より本尊(ほんぞん)阿弥陀像(あみだぞう)木仏(もくぶつ)を下付(かふ)され、いち早く寺院化する。寛永(かんえい)七年(一六三〇)に当時の真宗先進地越中(えっちゅう)石動(いするぎ)から正式な僧侶寛(かん)能(のう)を迎えて寶圓寺を名乗り、名実ともに寺院となった。そして江戸時代を通じ教如上人が創立した八尾別院(慶長一二年・一六〇七)の組頭(くみがしら)を勤めた。寛能は白川(しらかわ)郷(ごう)の古刹(こさつ)照(しょう)蓮寺(れんじ)の出身で、山号の「中野山」は照蓮寺のあった「飛騨中野」に由来する。

寛能着任後の寛永(かんえい)十六年(一六三九)には教如(きょうにょ)上人絵像、万(まん)治(じ)四年(一六六一)親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)御影(ごえい)、寛(かん)文(ぶん)九年(一六六九)太子(たいし)・七(しち)高僧(こうそう)絵像を東本願寺から下付されている。教如上人絵像が親鸞聖人御影より早く、寶圓寺が生粋(きっすい)の教如派であることを物語っている。

平成二十二年(二〇一〇)、二八〇年ぶりに本堂の解体(かいたい)修復(しゅうふく)を行い、併せて耐震(たいしん)工事(こうじ)を施した。この時大棟(おおむね)鬼瓦(おにがわら)と小(こ)屋裏拮(やうらはね)木(ぎ)から享保(きょうほう)十五年(一七三〇)の銘が出て、現在の本堂が宝(ほう)永(えい)地震(じしん)(宝永四年・一七〇七)後の新築建立(こんりゅう)であることが判明した。また本堂基壇(きだん)裾(すそ)より石垣が発掘され、それ以前からの施設の上に現本堂が建てられていることも判った。なお現存する太鼓(たいこ)の胴(どう)裏(うら)銘(めい)から旧山門「太鼓楼(たいころう)」が宝永六年築造されたことが判った。平成七年(一九九五)の阪神(はんしん)大震災(だいしんさい)により被災し、翌年現山門が新築された。

 

《補注》

1 慈願寺は親鸞面授の弟子とされる法心が開いた河内真宗の盟主的存在であった。法円の時代、明応(めいおう)五年(一四九五)に蓮如は大坂坊舎を建立しており、法円も足繁く通い、法(ほう)円坂(えんざか)に名を残している。この後、加賀(かが)一向(いっこう)一揆(いっき)を逃れ密かに大坂に入った蓮如を手引きしたのも法円と考えられている。蓮如は慈願寺に逗留(とうりゅう)して河内~堺の布教に当たった。寶圓寺草創期からの檀家内仏に戦後まで蓮如直筆の名号が伝わっていた。寶圓寺と法円の関係はこの頃までに始まっていたと考えられる。

2 喜連法春のいた天文年間、慈願寺は天文(てんぶん)一揆(いっき)(元年・一五三二)で河内門徒を指揮した廉(かど)で暫く牢人(ろうにん)(活動停止)とされている。一方一揆を制圧した摂津(せっつ)管領(かんれい)細川(ほそかわ)氏(うじ)綱(つな)は喜(き)連(れ)城主(じょうしゅ)に入っている(『摂津誌』)。慈願寺直系の喜連法春に率いられた西喜連村門徒団は、厳しい政治的緊張の中で信仰と団結を固めたと推測される。

3 慈願寺は真宗の東西分派の折り、久宝寺の顕証寺と袂を分かって八尾に移り、教如の八尾別院(大信寺)創立を助ける。この寺内町から発展したのが現在の八尾である。

飛騨(ひだ)から荘川(しょうかわ)が注ぐ砺波(となみ)平野には親鸞面授の弟子とされる嘉念坊善俊が開いた白川(しらかわ)郷(ごう)の古刹(こさつ)照(しょう)蓮寺(れんじ)が蓮如系の寺院が叢生する以前に真宗の教線を伸ばしていた。照蓮寺は石山(いしやま)合戦(かっせん)に遠路参戦し、敗戦後は教如の飛騨潜伏(せんぷく)を助けている。寶圓寺の山号「中野山」は照蓮寺の在所飛騨中野に、また住職の白川姓は白川郷に由来する。

【所在地】
平野区喜連3-8-24

【電話番号】

06-6709-6056

江戸時代の初め 元和年間の寶圓寺1

元和2年平野家の参詣を記す北村文書の一節。

江戸時代の初め 元和年間の寶圓寺2

元和7年、正斎を筆頭願人に本尊を申請し免許される。左図の平野屋宗右衛門が冥加金の3分の1を寄進している。

江戸時代の初め 元和年間の寶圓寺3

本堂に残る最古の永代経札(元和9年)。

教如を押し立て道場から寺院へ1

教如を押し立て道場から寺院へ
寛永7年寛能着任(大阪府全志・東成郡誌)
寛永16年の教如上人絵像裏書

教如を押し立て道場から寺院へ2

教如を押し立て道場から寺院へ
万治4年の親鸞聖人御影裏書
寛永16年の教如上人絵像裏書

教如を押し立て道場から寺院へ3

教如を押し立て道場から寺院へ
寛永7年寛能着任(大阪府全志・東成郡誌)
寛文9年の七高僧絵像裏書で「寶圓寺」の寺号が初出

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼1

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼
ありし日の太鼓楼

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼2

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼
平野区制20周年『きらめきの再百見』に掲載された1994年当時の姿。

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼3

宝永大地震~阪神大震災まであった太鼓楼
「宝永六年」の太鼓胴裏銘。大修復の折り確認。1995年まで喜連で2番目に古い建物として現存していた。

解体修復で明らかになった歴史1

解体修復で明らかになった歴史
大棟の鬼瓦から「享保拾五歳戌三月吉日」の銘が出た。裏には河州国分村之瓦師松井四郎兵衛。平野川の水運で運ばれたなど当時の流通も推察される。

解体修復で明らかになった歴史2

解体修復で明らかになった歴史
お寺の大きな軒を支える部材=桔木

解体修復で明らかになった歴史3

解体修復で明らかになった歴史
桔木(はねぎ)の銘

解体修復で明らかになった歴史4

解体修復で明らかになった歴史
後堂外壁の下から石垣が発掘された。中世は濠だった可能性もある。

日本最古の真宗寺院本堂 照蓮寺(重文)

日本最古の真宗寺院本堂 照蓮寺(重文)
若き日の寛能が過ごした白川郷中野照蓮寺(16世紀の建築)。御母衣ダムへの水没を惜しみ高山城址に移築されている。城主金森長近が隠居後住職に入っている。
内陣は壁一列に本尊や絵像が並ぶ押し板形式。喜連ではすべての浄土(念仏)門寺院がこの中世道場様式を継承しており、創立の古さを伝える。

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