「幸村」縁の地「平野区」
2024年1月15日
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「幸村」縁の地「平野区」
平野区は、歴史深いまち。
戦国武将の真田幸村との縁も随所に見られます。
「幸村」縁の地「平野区」をテーマに平野区の歴史を紹介します。
平野区内の「幸村」縁の地~大坂の陣~
大念佛寺
全興寺
平野郷樋尻口門跡
安藤正次墓所
安藤正次は、大坂夏の陣のとき、御旗奉行として徳川秀忠に直属した。秀忠の使者として、前田利常、本田康紀の両軍に、敵陣へ迫るようにと伝えた。その際、数騎の敵兵に出会い、深手を負った。宿所である平野の願正寺に送られて、傷の療養に努めていたが、再起不能を悟り、自害した。
真田幸村休息所跡
志紀長吉神社
豆知識
戦国武将「真田幸村」について
・生年: 永禄10 (1567) 没年: 元和1年5月7日 (1615年6月3日)
・安土桃山・江戸初期の武将。名は信繁。幸村と称するが確かな史料はない。
・信州上田城主真田昌幸の次男。母は右大臣菊亭(今出川)晴季の娘。
・天正13(1585)年に上杉景勝の人質となる。同15年には父が豊臣秀吉に臣従したのに伴い大坂城へ出仕。
・秀吉配下の武将大谷吉継の娘を妻として、豊臣家との縁を深めた。
・慶長5(1600)年の関ケ原の戦では父と共に石田三成方について上田城で籠城し、中山道を進む徳川秀忠軍を挑発してその西上を阻止した。
・敗戦後、父と共に高野山麓の九度山に流されたが、同19年の大坂冬の陣に際しては、大坂方の招きに応じて入城し、大坂城外堀の天王寺口に出城「真田丸」を築き、徳川方の攻撃を退けた。
・翌年の夏の陣でも勇戦して家康の本陣を脅したが、5月7日の天王寺方面の戦闘で松平忠直の軍勢と激戦のすえ戦死した。
出典:朝日日本歴史人物事典
<参考文献>小林計一郎『真田幸村』
六文銭って?
真田氏の六文銭は、三途の川の渡し賃とされ、家紋に六文銭を用いることで、死をもいとわない決意を示していたといわれている。
あかぞなえ?それとも?
「大坂夏の陣図屏風」に描かれた真田勢の「赤備え」は有名ですが、真田丸攻防戦の直前、家康襲撃を企図した際に甲冑「南蛮胴総革威(なんばんどうそうがわおどし)」を着用したとも伝えられています。
そこで、平野区マスコットキャラクター「ひらちゃん」には、その両方をまとった「幸村ひらちゃん」として、PRをしていきます。
「幸村」だけに収まらない!平野区の歴史を探索しよう!
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平野区今昔アーカイブ
真田幸村に関するリンク先
大阪城天守閣
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