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天満橋(てんまばし)

2010年3月30日

ページ番号:925

 天満橋は、江戸時代から天神橋・難波橋と並んで浪花で最も重要かつ市井(しせい)の人々に親しまれた橋である。この三橋は「なにわの三大橋」と呼ばれ、公儀橋として幕府が直接管理していた。高欄擬宝珠(こうらんぎぼし)があり壮観な姿であったと伝えられる。大川に架かり、現在は京橋一丁目と天満一丁目にまたがっているが、江戸時代には今よりやや東に架かっており京橋二丁目と天満二丁目を結んでいた。
 橋を架けるという行為には、さまざまな理由があろう。経済的・政治的そして生活に密着した側面など多岐にわたっている。大坂は八百八橋といわれるほど橋が多かったといわれるが、大坂三郷に実際に架かっていた橋は、200ほどであったという。こうした橋は大きく分類すると「公儀橋」と「町橋」とに分けられる。公儀橋は、なにわの三大橋のほか旧大和川に架かる京橋、鴫野橋、鯰江川の野田橋、備前島橋、東横堀川の高麗橋、本町橋、農人橋、道頓堀川の日本橋、長堀川の長堀橋の12橋であった。
 それ以外の橋は「町橋」とされ、有力な商人や橋に近接している町々が分担して費用を捻出し、架橋・維持管理していた。江戸にくらべ町橋が圧倒的に多かったのが大坂の町の特長なのである。さらに町橋の費用負担は、橋に一番近い町が最も負担が高く、橋から離れるほど負担が軽くなっていたことがわかっている。浪花人の合理的な考え方がよくわかるシステムとなっていた。
 『難波鶴』によれば橋の長さは、100間。この橋の南側には当初、東西町奉行所があり、橋の北にも今でいう官庁街を形成していた。天満橋は町人が利用する一方で、こうした役人たちの通勤道であっただろう。
 また、水運の発達した大坂では、天満橋の下で船荷の積み替えが行われていた。淀川で活躍した天道船積荷送りを上荷茶船(うわにちゃぶね)に積み替えて八軒屋浜へと荷揚げしていたのである。その距離100間。上荷茶船仲間はそれだけの距離で小廻り賃を稼いでいたのである。幕末にやはり問題となったが、旧法のとおりと裁決された。橋をめぐるこぼれ話は、大都市である浪花には数多くあり、さらにわれわれの暮らしに密着したものであった。ゆえに橋には哀愁を誘う何かがあるのだろう。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

天満橋

 

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