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常安橋(じょうあんばし)

2010年3月30日

ページ番号:984

 常安橋。淀屋常安に由来する。人の名がついた橋である。淀屋の本宅は大川町(現中央区)にあったが、土佐堀川対岸の中之島の開発に尽力し、17世紀後半には日本一の豪商としてその名は諸国に知られた。現中之島四~六丁目はもともと常安町といい、淀屋常安が開発した土地だったのである。「初発言上候帳面写」には「常安請所」と記される。
 常安橋と呼ばれる以前、すぐ東側に架かっていた橋を田辺屋橋と呼んでいた。薬種商・田辺屋五兵衛の名に関係するものと推測されるが、田辺屋が道修町に転出してからは常安橋といわれるようになった。また、西側に架かる越中橋は元禄年間に架橋されたもので、その地に蔵屋敷を構えていた熊本藩細川越中守にちなんでいる。
 この界隈は、諸国の各藩が蔵屋敷を構えていた地として著名である。「難波鶴」には、周防岩国・越後村上・下総佐倉・筑後柳河・播磨姫路・讃岐丸亀・肥後熊本・同宇土・豊後杵築があったとみえ、元禄16年(1703)にはさらに播磨竜野・同宍粟・讃岐高松・阿波徳島・伊予今治・豊前中津の各藩が蔵屋敷を構えた。文化3年(1806)改正摂州大坂地図では岩国・姫路・柳河・高松・徳島・丸亀・宇土・熊本・杵築・美作津山とあり、以後幕末までほとんど変わらない。高松藩と丸亀藩蔵屋敷にはそれぞれ讃岐・金毘羅宮を祀っていたが、明治になって高松藩の金毘羅は露天神社(お初天神)に合祀された。
 現在の橋は、鋼桁形式のどっしりとした安定感のある姿をしている。幅員12.3メートル、橋長70メートル、頻繁に人と車が行き交う浪花ならではの情景である。
 ちなみに常安町には、大阪府第一番中学校があった。のちに改称し府立大阪中学校となり、堂島浜三丁目に移転して堂島中学校となった。さらに明治35年には北野に転出して府立北野中学校となった。大阪府立北野高等学校の歴史である。この付近はもともと文教地区だった。阪大本部・医学部・歯学部があったことは記憶に新しい。今、大阪市が市立近代美術館の構想を推し進めている。21世紀にふさわしい文教地区がまさに誕生しようとしているのである。
(大阪くらしの今昔館 学芸員 明珍健二)

 

常安橋

 

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