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中央電気倶楽部

2009年3月16日

ページ番号:1030

 中央電気倶楽部
 堂島川に架かる渡辺橋の近く、堂島の一角に褐色のスクラッチタイルが張られたレトロなビルが建っています。中央電気倶楽部の会館です。中央電気倶楽部は、大正二年(一九一三)に関西における電気事業関係者の親睦を図る目的で設立された団体で、当初は中央電気協会と称しましたが、後に現在の名前に改められました。
 会館は当初、大正三年に建設されましたが、これは竣工まもなく原因不明の火災によって全焼してしまい、二代目の建物は同五年十一月に再建されました。このとき施工にあたったのは清水組で、設計は野口孫市だったと伝えます。ところが、この建物もすぐに利用者の増加によって手狭になったため、昭和二年には新館建設が決議され、東隣の土地一一七坪を買い足して敷地が三五四坪に拡張されました。そして建物は葛野建築事務所(葛野壮一郎)の設計、大林組の施工によって同四年六月に着工され、翌年十月に竣工しました。現在はこのときのものが残っています。なお葛野壮一郎は明治三十八年(一九〇五)に東京帝国大学を卒業し、横河工務所、大阪府技師を経て独立し、大正から昭和初期にかけて大阪で活躍した建築家で、大江ビルディングの設計者としても知られています。
 建物は、鉄骨鉄筋コンクリート造の地下一階地上四階建で、外観は当時流行していたスペイン風の意匠でまとめられています。また内部は、正面玄関を入ると広いホールになっており、その奥には談話室と囲碁室、さらに奥にはビリヤード台が置かれた球戯室が配されています。つぎに二階は正面中央に迎賓室と横に和室の日本室が並び、奥は広い談話室で一隅にはバーも設けられています。そして三階には大食堂、四階には舞台付きの大講堂が作られています。
 ところで、設計者の葛野壮一郎はこの会館が竣工した昭和五年に、クラブ建築というのは「客室と食堂の延長」のもの、つまり「純粋な社交機関」であり、したがって談話室・図書室・食堂・特別室(和室)・娯楽室・酒場・大会堂などの諸室が必要である、と述べています(『建築と社会』昭和五年十一月号)。中央電気倶楽部の会館は、葛野が描いたクラブ建築そのものだったことがわかります。大阪倶楽部(大正十三年、安井武雄)、綿業会館(昭和六年、渡辺節)と並び、大阪を代表するクラブ建築の一つといえるでしょう。
(住まいのミュージアム学芸員 新谷昭夫)

 

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